(京都帝国大学の発足)

 明治10年、時の政府は日本最初の大学、東京大学を創設した。この大学はやがて明治19年に「帝国大学」とその名称を改めることになる。その時、三宅雪嶺は「帝国大学の名称を選べるは、帝国における唯一大学とするの意なりや、当分かくて十分なりとするの意なりや」と疑ったが、明治30年に京都帝国大学が創立されるまでの20年間、この大学は我が国唯一の大学として、近代学校制度の頂点に君臨していた。こうした「帝国唯一の大学」に対抗して、新たな帝国大学を創設すべきだとする論が浮上したのは、明治25年のことである。この年、長谷川泰議員は小倉良則ほか32名の議員とともに、時の第4帝国議会に「関西に帝国大学を新設する建議案」を提出した。その建議案は次のようにいっている。

「わが帝国に唯一の帝国大学を東京に置き、すこぶる完全なるが如しといえども、つらつらその実況を観察するに、他に競争者なきがため、その教員たるもの斬新の学理を発見するの傾き、しらずしらず退却し、大学の大目的たる学理の蘊奥を発見し、わが帝国の光を外国に輝かすことあたわず」。

 長谷川達の意図を集約的に表現しているのは、「他に競争者なきため」という一文である。東京に置かれた我が国唯一の大学、「帝国大学」は、その特権的地位に甘んじ、教員も学生もその独占的な地位に安住している。ここにもう一つの競争者を作り、相互に刺激し合うような競争関係を作ることが必要である。この競争関係は、やがては両者にとって好ましい結果を生むに違いない。これが長谷川等の意図であるとともに期待でもあった。

 しかしながら、この建議案は日清戦争の勃発という新事態の到来にため、にわかに実現することはなかった。京都帝国大学が創設されたのは、この建議案の提出より5年経った、明治30年のことであった。当初理工科大学のみで発足した京都帝国大学は、2年後の明治32年には法科大学が設置され、かくしてここに、東京と京都の土地に二つの法科大学が合い並ぶ新たな体制が成立することとなった。

この新たな時代を迎えて、世人は東西両京の大学間の「競争」に熱い期待を寄せた。当時の雑誌「教育時論」は、その社説において「われらが京都大学に望む所の一は、すみやかにその設備を全うし、十分に東京大学と拮抗しうるがごとくせんこと是なり」と論じた。さらにまた雑誌「日本人」は「京都に帝国大学を設置し、東西あい拮抗し、互いに競争者たらしむるは、教育進歩の点においてとくに必要をみる。拮抗競争もともと敵意を意味するにあらず。あえて反目喧争するをもちいず。ただ互いに精励業を勉め、我が校を美にして、他に劣らざらしめんと努むべきのみ」と論じた。こうした新聞論調が雄弁に物語るように、京都帝国大学は東京帝国大学に対する強力な挑戦者であることを期待されるとともに、同時に宿命づけられてもいた。

(東西両京の大学)

 京大法科大学発足後、4年たった明治36年、当時の読売新聞には「東西両京の大学(法科の部)」という連載記事が6ヶ月間にわたって掲載された。毎回読売新聞のトップを飾るこの連載は、文字とおり当時の読書界を震撼せしめた。表題をみる限り、それは東京、京都の法科大学の比較論評であるかのように見えるが、それは通り一遍の中立公平無私の比較論評などではまったくない。このなかで論者は、老舗東京帝国大学を徹底的に批判し、新興京都帝国大学を徹底的に持ち上げる論法を用いている。「吾人は法科大学を論ずるに当たって、東京大学の改革を以って至要の目的となし、これに向けて全力を注がんことを欲せり。…・ただ情弊纏綿の東京大学は、これを攻撃するにおいて改善の実を挙げしめ得べく、新進気鋭の京都大学はこれを称賛するにおいて発達の途に就かし得べしと信じたり」(275頁)という一文が、そのことを如実に物語っている。その一端を紹介するならば、こうなる。

「現今の東京大学の始設における法律の教授法は、全くこれ法律学的にして、条章の暗誦、智識の注入を主眼とし、法的練習、法理思想の養成に至りては、ほとんど望むべからざるに似たり。独り京都大学の法科においては、…(中略)…学生に向かいていたずらに講義暗記を強制するをもって能事これ終われりとするの弊風を避け、大いに自由討究の余地を与えて、法理思想の訓練に力を致さしめんとするの風あるもののごとし」(斬馬 47)、「東京大学の学生は参考書を読む者わずかに百人中2,3人なるに過ぎずして、他は皆講義の暗誦をもって能事これ了れりとなすもののみなるに反し、京都大学の学生は、一科目について原書2冊以上を読まざる者なし」(斬馬 49)。「今の東京大学のその学生に対するや規則をもって束縛し、権力を用いて干渉し、徹頭徹尾小学校流の方法をもって彼等を教育せんと欲す。彼等は実にすべての学生を同模型に入れて陶冶せんとするものなり。翻ってこれを京都大学にみるに、東京大学の小学校的、監督的、圧制的、注入的、器械的なるに比すれば、さらに大学風にして、さらに放任自由の主義を採用し、さらに開発的活用的の精神を加えて、真に大学らしき大学の創立を見たるの実績、歴々として指摘し得べきものあり」(25)。

この評論の執筆者は斬馬剣禅と称されているが、それが実名でないことは明白である。大内兵衛は後年、その著書「経済学50年」(上巻、2−3頁)で、これを五来素川のことだとしているし、末川博もまた、その著書「彼の歩んだ道」(岩波新書、1965年、169頁)で斬馬剣禅は五来素川のペンネームだと記している。こうして記述が残されていることからみて、「斬馬剣禅」とは「五来欣造」のことであることは、間違いあるまい。ちなみに、大正元年に中央通信社から刊行された「現代人名辞典」をひもとくと、「五来欣造」の項には、「明治8年6月生まれ。29年に法科大学を卒業し、弁護士の業を開く。傍ら読売新聞に諤諤の筆を揮い、とみに声名を揚ぐ。素川は即ちその雅号なり。後ち仏国に留学し、帰朝後著述に従事す」と記せられている。また1979年刊の平凡社の「日本人名辞典」によると、「政治学者、政治学博士。明治8年6月茨城県に生まれる。同33年東京帝国大学放火大学仏法科卒業後、フランス、ドイツに留学、大正3年(1914)帰国して、読売新聞主筆、明治大学講師をへて、昭和2年(1927)早稲田大学教授となった。素川と号して、俳句を能くした。昭和19年8月1日没」とされている。「東京帝国大学一覧」によると、「五来欣造」なる名前は、明治33年7月の卒業者のなかに発見することができる。そのことから判断するならば、卒業年次については中央通信社の「現代人名辞典」よりも、平凡社の「日本人名辞典」の方が正しい。つま「五来欣造」が「斬馬剣禅」なる匿名を用いて「東西両京の大学」を書いたのは、法科大学卒業後3年の時点であり、両方の法科についてかなりの情報、情報源を持っていたのであろう。

 もともと斬馬剣とは、古代中国の漢の時代から語り伝えられている名剣の名前である。つまり、一刀のもとに馬をも斬り倒すほどの鋭利な刀のことである。ところが、やがて意味が転じ、君側にはべる奸臣、佞臣を切り倒すための剣を意味するようになった。君側の奸を切り倒す名剣。筆者がこれをペンネームに選んだ意図は、明白である。筆者はこのペンネームを掲げて、いまや国家権力の中核機構へと成長しつつあった東京帝国大学に批判の鉄槌を下そうとした。

もともと時代の権威に批判の鉄槌を下し、新進気鋭に声援を送るのは、いつの時代にあっても、ジャーナリズムの本性である。そこにはジャーナリズム特有のレトリック、誇張が混じっていることは無視できまい。しかしながら、この「斬馬剣禅」の記述のすべてを誇張・歪曲として退けることができないのは、丁度その頃、新興京大法科が新たな教育理念を掲げ、新たな教育方式を採用して、伝統を誇る東大法科に対して、果敢なる挑戦を試みている最中であったからである。つまり、同じ法科大学とはいっても、東大と京大とはきわめて対照的な教育理念を掲げ、きわめて異なった教育体制をとり、その成果を相互に競い合っていた最中であった。それではその挑戦とは、どのようなものだったのであろうか。

(東大型の教育方式)

斬馬剣禅はこういう。

「京都大学設立の議、まさに議会に入れられ、政府はその教授連を養成すべく、新学生の多数を欧州に派遣せり。時に法科大学教授として、まずその選に当たりしもの、いわく岡松参太郎、いわく高根義人、いわく織田万、いわく井上密。この四新進学士はベルリンにおいて、その攻学の歩を進むるの間、しきりに他日吉田山麓講壇に立つの日を夢み、時に一堂に会して相議して曰く、東京大学学界の巨擘を集め教育界の一方に蟠踞し、その閥や堅く、その勢いや大なり。彼等はその曲学をもって世に阿り、その官学をもって政府の歓心を買えり。もし京都大学にして彼等の風下に立たんと欲せば止む。その国家が東西両大学を興して、学風の刷新を期するの精神に悖らさらんと欲せば、宜しくまず京都大学の学問の独立をもって陣頭の旗幟とらさざるべからず。(中略)ここにおいて彼等は麦酒の杯を挙げ、満引してもって快と称せり。爾来、彼等は旬日にして一回の会合を催し、互いに肝胆を吐露し、大いにその新設備の画策に勉めたり。人これを称してベルリン党という。」(19−20)

 この本のなかで斬馬剣禅は、このベルリン党が新生京大の学風を作り上げていったことを書いている。それでは、京大独自の学風とはどのようなものだったのであろうか。その詳細は拙著「京都帝国大学の挑戦」で述べておいたので、ここでは割愛したい。むしろ当時の学生達が、京大独自の学風をどうみていたのか、それを紹介しておきたい。

 寺崎昌男氏の「大学生活について帝大生たちが後輩に与えた手紙(2)――「学ぶ者」の側からの大学史について」には、いくつかの学生達の経験した講義光景が書き記されている。たとえば、東大法科の憲法の講義について、「憲法(穂積八束)秩序整然たる朗読講義、生達は速記機の如くに寸分の間隙なく筆記するなり、蓋し筆記制度の模範とも謂うべけむ。」と記述されている。この記事によると、穂積教授の講義では、同教授の憲法解釈以外は一切認められないため、「ある学生の如きは一切他の憲法講義を参考にせぬよう、心掛たることさえ聞き及び候」と書かれている。そして「教科書は一冊もなく、いずれも筆記に候ところ、憲法を除くほか皆緩慢なるものなれば、決して筆記に骨折れることはなく候」とされている。

 つまり、その当時の東大法科では、教授が自分の講義ノートを読み上げ、学生は懸命になって、それを書き写すという「筆記制度」がとられていた。しかも、試験の時になると、学生達は必死になってこの講義ノートを丸暗記し、答案用紙には暗記してきたことを丸写しに書き写す。だから、その当時「帳合的試験」という言葉もあった。つまり学生は講義ノートを丸暗記してきて、答案に書き写す。教授は学生の試験答案が、自分の講義ノートとどれだけ合っているか、まるで帳簿を照らし合わせるようにして、採点するというのである。はたして、当時の教授達は一人一人の学生の答案を、いちいち自分の講義ノートと引き比べながら採点するなどということを実際に行っていたのかどうか、今となっては確認のしようがないが、「帳合的試験」という言葉が残っていることから判断すると、それに近いことはあったのであろう。

その証拠をもう一つあげるならば、明治40年代、はるばるドイツから日本にきて、当時の東大法科の教壇に立ったハインリヒ・ヴェンティヒの嘆きを上げることができる。ちなみに、ヴェンティヒは滞日時代に「東京帝国大学における経済学教授改良意見」なる論文を発表している。そのなかに、次のような主旨のことをいっている。「日本の学生は教室に入ったその日から、子供じみた試験恐怖症におかされている。彼等の頭の中にあるのは、どうしたら学年末の試験をパスできるか、それだけである。私はこれまで何回か試験をしたことがあるが、その答案のほとんどは、講義ノートをそっくりそのまま引き写しただけのものである。そうするのが、試験に合格するもっとも安全な方法だと、学生達は考えているらしい。私はこういう話を聞いたことがある。ある3年生はその友人に向かってこういったという。”今度の試験のために講義ノートを何ページ暗記しなければならないか、君知っているかね。5千ページだよ”。これほど現在の東大生の実状を表現した言葉はほかにはあるまい」。また、ヴェンティヒがはじめて東大の教壇に立った時、学生達が要望したことは、「どんな時でも頼ることのできる教科書を一冊指定してくれ」という要望であった。これに対してヴェンティヒは、勉強とは一冊の教科書を丸暗記することではなく、さまざまな本を参考にして、自分なりの考え方を作り上げることだと説明したが、学生達はなかなか納得しなかったという。こうした当時の記録が物語っているように、当時の東大法科を支配していたのは、「講義ノートの朗読」、「学生による筆記」、「講義ノート丸暗記による試験準備」、「帳合的試験」などであった。

(筆記学問の実態)

筆者はかつて東海大学三原義男教授のもとに残されている、明治44年に東京帝国大学の法科大学を卒業されたご尊父が、学生時代に書き残された講義ノート69冊に目を通す機会を持った。このB5版のノート69冊の総ページ数は約4000ページに達する。一つの山に積み上げると、高さ約70センチほどになる。試しに秤にかけてみたら、約17キログラムとなった。筆者が驚かされたのは、その量だけではない。その当時、東京帝国大学の教授は、すでにさまざまな著作を公刊している。この講義ノートの内容は、これら著作の内容とどういう関係にあるのか、同じなのか、違うのかが、気になった。いささか悪趣味かもしれないが、いくつかの教授達の講義ノートと、その当時すでに刊行されている著書の内容を比較してみた。ところが、大部分の教授達の講義ノートは、すでにその当時、刊行されていた著作と同内容である。それを若干縮めたり、若干付け足したりしている場合もあるが、大部分が市場で公刊されている著書と同じである。つまり、当時の学生達は、教室で行われている講義内容が、すでに市販されており、いくらでも買うことができる著書と同じであることを知りながら、筆記学問に耐えていたことになる。

 その当時、学生だった大内兵衛は、「経済学50年」で、こう回想している。「講義は全く面白くなかった。講義は本より少し詳しいところもあり、本を略したところもあるが、何しろ時々ダジャレがまじっていて、試験にはそのダジャレが出るというのであるから、本のテキストがあっても、そのダジャレをきいていないと落第するといわれていたので、誰もがノートをとったのである」。

京大法科の初代の教授達は、東大法科でかつてはこうした教育を受けた経験者であった。その彼等の多くは、いずれ京大教授となる予定のもとに、海外留学の途に向かった。しかも彼等の大部分が、ドイツの大学に留学した。つまり京大法科の初代教授達は、そのほとんどがドイツ留学経験者か、ドイツの大学の卒業生であった。ドイツに留学した彼等は、そこで東大方式とはまったく異なった教育方式を体験した。つまり彼等は日本ではじめて、日本の大学とドイツの大学とを、自分の体験を通じて比較し、その相違を身をもって体験

した、独自な世代であった。

(ドイツ・モデルとの接触)

 帰国後、彼等は新たに設置される京大で、東大とはまったく異なった教育方式を実験しようと試みた。京大方式の主導者だった高根義人は、こういっている。「ドイツの大学は、学問を研究する場であると同時に、その成果を教える場でもある。だから、ドイツの大学教授は授業をすると同時に研究をしなければならない。ドイツの大学生もまた、授業を受けると同時に研究をしなければならない。だから教授は教室では、科目の大綱を講義するが、教室の外では詳細な研究をおこなわねばならない。学生もまた、教室では知識の獲得に勤めるが、教室の外では自分で研究を行い、自分で専門を深めなければならない」。

明治33年、京大法科は新たな規程を設け、新たな教育方式を採用した。その主だった点を上げるならば、まず「演習科」が設けられ、すべての学生にそれへの参加が求められたことである。この「演習科」とは、教授達がドイツの大学で体験した「ゼミナール」であった。たとえば、明治40年、財政学の神戸正雄教授は、財政学の演習科の開講にあたって、こう説明している。ちなみに神戸はこの年、ドイツ留学から帰ってきたばかりのところだった。

「ドイツの大学の演習科では、頻繁に時事問題の討論が行われ、新刊図書や新刊の雑誌論文の紹介や、それについての討論が行われている。また場合によっては、学生が自分でかいた論文を紹介し、同じ演習科の学生が、それをめぐって討論や批評を行っている。ある場合によっては、エキスカーションといって現場にでていって実地調査をしたり、大学図書館にいって資料を調べたり、あるいは博物館にいって、古い貨幣や古文書を調べるということが行われている」。

 これらはいずれも、学生に教科書の機械的な暗記を強いるのではなく、現実の社会の姿を自分の肌で感じ取り、それをもとに自分の考え方を組み立てさせることに狙いがあった。他方、その当時の東大法科に目を向けてみると、東大でも演習科は部分的には幾人かの教員によって開講されていた。ただ京大と決定的に違う点は、京大の演習科はすべての学生必修であったのに対して、東大では希望者だけが受ける科目でしかなかった。これら少数の教員によって開講された演習科も参加者が少なく、学期途中で中断してしまうこともあったとのことである。たとえば、ヴェンティヒが率先して開いた演習科には、はじめこそ多くの学生が参加したが、一人抜け、二人抜け、ついには授業が成り立たなくなってしまったということである。

 斬馬剣禅は「東西両京の大学」のなかで、この京大の演習科を高く評価している。「東京大学の法律の教授法は、条章の暗記、知識の注入を主眼とし、法的訓練、法理思想の養成にいたりては、ほとんど望むべからざるに似たり。ひとり京都大学の法科においては、いたずらに講義暗記を強制するをもって能事これ終われりとするの弊風を避け、大いに自由討究の余地を与えて、法理思想の訓練に力をいたさんとするの風あり」(47)

(京大型の教育方式)

 さらに注目すべきことは、京大法科では、こうした演習科で習得したことを、卒業論文としてまとめることをすべての学生に課した点である。つまり全員に何らかの卒業論文を作成させたのである。これもその当時の東京大学ではまったくみられない、あくまでも京大独自の制度であった。学生が自分でテーマを選び、それについて自ら調べ、その成果を論文にまとめるとすれば、それなりの条件が必要である。その条件のなかで、もっとも大切なのは図書館制度である。その当時、東大法科の図書館では、学生は本を貸し出してはもらえなかった。あくまでも図書館のなかで読むしかなかった。ところが京大はこうした東大とはまったく異なった図書館制度を作り出した。つまり、京大では学生でも図書館の本を自宅まで借り出せる仕組みを作り上げた。この点に注目した斬馬剣禅は、こういっている。「東京大学の学生は参考書を読む者はわずか百人中2、3人にすぎず。他の学生はみな講義の暗誦をもって能事これおわれりとなす。これに反して、京都大学の学生は、1科目について原書2冊以上を読まざる者なし」(49)。「試験及第の目的をもってなす講義筆記の暗誦は、まったく一時的なもので、けっして真の学力を養成するものならず。これに反して論文を書かんがために、研鑚討究するところのものは、真に学生の脳裏に固着し、決してこれを忘却しさるの期なきなり」(51)

 さらに注目すべきことは、京大ではこうして作成された学生の卒業論文のうち、優秀なものを出版刊行しようとしたという事実である。もちろん学問市場、書籍市場、出版市場がじゅうぶん整っていなかったその当時、この事業はなかなか軌道にのらなかった。しかし明治39年1月から刊行されることとなった「京都法学会雑誌」には、学生の作成した卒業論文が収められている。後年、これらの論文を読んだ末川博は「第1期卒業の佐々木惣一、第4期卒業の竹田省の両先生が学生時代に書いた論文など、彼も(注:末川のこと)後日これを見て、実によくドイツの原書を駆使して書かれたものだと驚嘆したものだ」と告白している。ちなみに、末川の学生時代には、こうした卒業論文制度はなくなっていた。

 このように、創設期の京大法科は東大法科とは対照的な教育を目指した。それは近代日本における最初の自覚的な明確な大学教育理念の主張であった。それは東大型の教育体制に対する挑戦、日本の伝統的な大学教育に対する挑戦であった。その主導者の多くは、かつては東大で、講義ノートの暗誦型の教育を受け、ドイツの土地に渡り、そこでまったく新しい教育方式を体験し、それに深い印象を受けた。これは日本からドイツに留学した学生ばかりでない。その当時、ドイツへは多くの国から留学生が留学していたが、彼等はいずれもドイツの大学の教育方式に、深い印象を受けた。(19世紀末アメリカからドイツに留学した若者が、アメリカとドイツの大学との相違に、どれほど驚き、ドイツ型の方式をアメリカに導入しようとしたかについては、潮木守一「アメリカの大学」(講談社学術文庫。参照)。

 彼等の試みは単に大学教育の改善、法学教育の改善といった次元にとどまらなかった。それは学問のあり方、学問の学び方、学問の教え方に対する新たな主張だったのである。その当時、「中央公論」は次のような東大批判を行っている。

「東京帝国大学法科大学某々教授は、学生をしてことごとく自己の所説に盲従せしめ、一言といえども、これに向かって説をさしはさむことを許さず。学年試験の答案のごとき、ただ機械的に講義録を暗記せしめ、与えたる問題の解釈は、一語といえども師説の外を逸脱せざらしめ、もし多少の識見あるありて、斬新なる議論をなすものあらむか、彼等はただちに一種の謀反人として減点の刑に処せられ、はなはだしきは、これがために落第の不幸におとしいれられて、一年蛍雪の苦も、いたずらに画餅に属するものありという」

さらにまた、斬馬剣禅はこういう。

「しかるに見よ。我が東京大学のごときは、ある科においては日々学生の出席欠席を調査し、ある教師のごときは遅刻者に向かって減点をなすべしと威嚇すというごとき、これはたして大学生を遇するのみちなるか。いたずらに講座を増設し、授業時間を倍加して、彼等学生をしてつねに筆記の暗誦に寧日なからしむるがごとき、これをしも開発教育というをうべきか」。

(高文試験不振)

 明治37年、京大法科教授岡村司は学生を前にして、こう演説した。

「元来、東西両大学はその主義を異にせり。京都大学は自由探求を主義とし、これに対して、東京大学は圧制詰込みを主義とせり。東京大学の主義としては、あらゆるすべてをつくして余すところなからしむるには、時間も多く年限も長く、教授は懸河の弁をもって、学生をして課目は1も2もなく、ノート中のものたらしめ、なお足らずんば補講を設けて、圧制的に注入せんとするものなり。これに対して京都大学においては、授業時間外の時間こそ貴重な時間にして、その間に内外の参考書を渉猟し、自由に研究・探求して、新知識を捕捉することをうるなり。今もしこの主義を遂行し、その特色を発展せしむことあたわざらむか、潔くこの主義の下に斃れむのみ。京都帝国大学は自滅せんのみ」。

 この演説を聞く京大生の顔には不安感が漂っていた。明治36年7月、京大法科は最初の卒業生を送り出したが、この42名の卒業生のうち、官僚の登竜門ともいうべき文官高等試験に合格した者は、わずか一名でしかなかった。この年の合格者53名のうち、東大出身者は38名。残りの11名の多くは私学出身者であった。明くる明治37年11月、官報は54名の文官高等試験合格者を発表したが、そのうち36名までが東大卒業者。ついでは日本法律学科卒業者8名、東京専門学校(早稲田大学)出身者が3名。この年、文官高等試験合格者名簿のなかに、京大卒業者の名前はついに一人も発見できないまま終わった。

 高文試験不振という事態を前にして、京大生の間には不安が走った。岡村教授は動揺する京大生を集め、京大の理想を説き、その教育理念を改めて学生に語った。「もしこの理想が達成されないならば、潔くこの主義の下に倒れようではないか。京都帝国大学は自滅しようではないか」。こう説く岡村教授の前で、京大生は何を思ったのであろうか。

 ちなみに岡村司は、その後明治44年6月、岐阜県教育会総会で行った「親族ト家族」という講演がもととなって、文官懲戒令による「譴責」処分を受けることになる(京都大学大学院法学研究科・法学部 22頁)。しかしながらその事件が起こる以前から、政府は岡村司の言動に対してなんらかの疑念を抱いていたらしく、明治40年10月、京大総長として着任してきた岡田良平は、ある日、岡村司教授の授業を参観しようとして、退場を求められるという事件を引き起こしている。結局のところ、岡村司は大正3年、つまり沢柳事件のほとぼりの冷めぬなかを「神経衰弱症」を理由に、依願退職をしている。しかし、彼の周辺にいた人々は「体格強大脂肪過多短頚ニシテ顔貌潮紅」(辞職願に添付された医師の診断書による岡村の描写)が、神経衰弱にかかったという話は一度も聞いたことがなかったと明言している。岡村司の辞任は、干渉著しい総長の登場、舌禍事件、沢柳事件に発する紛糾などに原因があったのかも知れないが、後に述べる明治40年の規程改正のなかに「京都帝国大学の自滅」を見ていたのかもしれない。

 話をもとに戻すならば、明治38年、39年と年を追うごとに、京大不振は紛れもない事実となっていった。明治39年7月まで、京大法科は合計299名の卒業生を送り出したが、明治39年11月までの高文合格者は、わずか9名。その卒業生全体で占める割合は、わずか3パーセントにすぎなかった。もちろん東大卒業生にとっても、高文試験は難関であることにはかわりはない。しかし、同じ期間を比較すると、卒業生総数702名、高文合格者は163名。つまり東大法科卒業生の23パーセントが高文試験に合格している。一方が4名に一人が合格しているのに、他方は30名に一人しか合格していない。

 京都大学の発足当時、世間は「われらが京都大学に望む所の一は、すみやかにその設備を全うし、十分に東京大学と拮抗しうるがごとくせんこと是なり」と京大の将来に対して大きな期待をかけた。一日も早く東大に対抗しうる大学に成長することを念願していた。ところがいざ蓋を開けてみると、高文合格者の数が伸びない。こうした事態を前にしてついには、議会では京大批判の声が登場した。京大卒業生の高文合格率が悪い、司法官試補試験をしても、京大の卒業生で満足に合格する者がいない。私学卒業者を中心とする議員のなかには、この京大不振を理由に、帝大特権そのものの廃止を主張する者がでてきた。京大法科は危機的状況に立たされた。さらに明治40年、京大法科進学者は32名と、発足以降最低の数に落ち込んだ。明治37年には177名と最高を記録したのに、わずかその3年後には、ピーク時の6分の1に激減した。

(高根義人の退陣)

 明治40年2月、京大改革の主導者高根義人教授の退任が明らかとなった。彼はまだ40歳になったばかり、京大に赴任してから8年しかたっていない。京大法科は高根教授の辞任を追うかのようにして、規程改正を行い、卒業論文制度を廃止し、明治36年以来採用していた3年制を、東大と同様の4年制に切り替えた。要するに東大と実質的に変わりのない制度をとることとなった。そのとき京都日出新聞は(明治40年5月14日)、社説に「京都法科規程の復旧を惜しむ」という題名を掲げ、「保守的東京大学の陣門に降を請うの状に甘んぜんとは、吾人はただ京都大学のためのみならず、実に我が学界のために惜しむ」と論評した。

 このようにして、明治32年以来、あえて東京大学とは対照的な教育理念を掲げ、独自な路線を目指した「京都帝国大学の挑戦」は、高文試験不振、司法官試補試験の不成績という事態を前に、一旦は後退・修正を余儀なくされた。しかしながら、東大とは異なって、学生に取るべき課目、学年を指定することはせず、学生自身の自由選択にゆだねるなどの京大独自の方式は、その後も長年にわたって受け継がれることとなった。さらにまた、「大学はただ学問を教授するにとどまらず、学問の研究発達をもって、その主たる目的となすべき」という高根義人の大学観が、大学構成員の胸のなかに受け継がれ、それが時代を超えて、さまざまなバラエティを伴いながら、京大を舞台にして演じつづけられることとなった。その意味で、京都帝国大学は、決して「2番目の帝国大学」ではなく、日本最初の「大学理念」が自覚的に形成された大学であった。それは近代日本が知らなかった新たな試みが実行された実験大学であった。我が国においてははじめて、明確な意図のもとで大学理念が形成され、主張され、しかもそれが実行に移された大学だった。

参考文献

京都大学大学院法学研究科・法学部「京大法学部100年のあゆみ」

潮木守一「京都帝国大学の挑戦」。講談社学術文庫。1997年。

斬馬剣禅「東西両京の大学」。講談社学術文庫。(1988年。復刻版)

潮木守一「ドイツの大学」。講談社学術文庫。(1992年)。

潮木守一「アメリカの大学」。講談社学術文庫。(1993年)。

潮木守一「キャンパスの生態誌」。中公新書。1986年。

潮木守一「ドイツ近代科学を支えた官僚」。中公新書。1993年