潮木守一(桜美林大学)
(要旨)
「教員大量脱出―学校溶解のシナリオ」。これはOECDが描き出したシナリオの一つである。今後大量の教員が定年退職を迎え、その補充が追いつかず、学校がメルトダウンするかもしれないという。どこの国でも、若者を教職に惹きつけることが難しくなった。学校の溶解は、すでに学級崩壊となって現れ始めている。
(OECDの教育政策分析)
OECDの「教育政策分析2001年度版」は、将来学校がどう変わる運命にあるのか、いくつかのシナリオを描きだしている。そのなかの一つに「教員大量脱出―学校溶解のシナリオ」というシナリオがある。今後10年以内に大量の教員が定年退職を迎え、その補充が追いつかず、学校がメルトダウン(溶解)するかもしれないというのが、そのシナリオの主旨である。
少子化傾向の著しい日本では、これまで教員採用数が減少を続け、長年、教員養成大学・学部の卒業者の就職難が続いてきた。そのため教員養成大学・学部の規模縮小を行い、教員養成学部を廃止するところもあった。それでも、多くの教職志願者が教員になれず、市場の回復を待って待機している。このような経験を続けてきた日本にとっては、教員のなり手がなくて、学校がメルトダウン(溶解)するなどというシナリオは、あまり現実味がない。しかし、果たして「教員の大量脱出・学校溶解のシナリオ」は、日本にとっては無縁なシナリオなのかどうか、一度立ち止まって検討してみる必要がありそうである。
最近の教職は、かつてのように「誰でもできる、やさしい職業」ではなく、神経の疲れる、成果の見えない、割りの合わない仕事になりつつある。若者からすれば、回りにはいくらでもエクサイティングで、実力を発揮できる仕事がある。かつては教職に入ってくる若者のなかには、「使命感」「理想」に燃えた若者がいた。しかし「使命感」「理想」といった言葉が、かなり前から、「死語」となった。教職を支える人材が枯渇し、その結果、学校がメルトダウンするというシナリオは、日本にとってまったく無縁なシナリオなのか。現代という環境のもとで、よく吟味する必要がある。
このテーマについて、OECDは「教育白書2003年度版」(原著名はEducation at Glance 2003)にさらに詳しいデータを載せているが、それによると、大量退職者が発生するのは、初等教育よりも中等教育だという。とくにイタリアとドイツでは、中学・高校教員の約半数がすでに50歳を超えており、スウェーデン、アイスランド、オランダ、ノルウェー、フィンランド、ニュージーランドでも3分の1以上が50歳を超えているという。つまり教員の半数から3分の1が、今後10年以内に定年に達する。
なぜこうした年齢の偏りが生まれたのかは、説明は不要であろう。1970年代のOECD加盟国は、高度経済成長、それにともなう生活水準の向上を背景に、中等教育が飛躍的に拡大した。伝統的にヨーロッパ諸国では、中等教育は社会の一部だけに開かれた、閉鎖的な学校であった。ところが第二次世界大戦後の民主化傾向は、そのような身分的で閉鎖的な学校の存在を許さなかった。どの政党も、教育機会の平等を掲げ、中等教育の改革と拡大を約束した。その結果、中等教育は拡大し、より広い層にまで普及した。
当然のことながら、70年代には大量の若い教員が採用された。その教員がごく近いうちに、定年退職時を迎えることとなった。その結果、もうすでに新学期が始まっても、教員が埋まらない現象が起き始めている。OECD加盟14ヶ国での調査によれば、2001/2002年の新年度開始時点で、高校教員ポストの平均12%が空席のままだという。なかでも採用が難しい科目は、科学・技術・コンピュータサイエンス、数学、外国語だという。つまりすでに特定教科では教員不足が目立ち始め、これがやがては他の教科に及ぶ可能性がある。これが学校溶解の一原因になろうとしている。
(新陳代謝が進むことは、よいことではないのか)
ただ退職者が多くても、それだけ教職希望者が多ければ、何ら困ることはないはずである。それだけ新陳代謝が進むのだから、それは大いに歓迎すべきことである。ところが、果たして教員希望者がじゅうぶん集まるかという不安感、危惧が、OECDの論調には色濃く漂っている。その背景には、教員給与の伸び悩みという問題がある。1996年〜2001年の5年間で、教員給与の伸び率が、1人当たりGDPの伸び率を上回ったのは、チェコ、イタリア、日本、メキシコ、ニュージーランドだけで、それ以外のOECD加盟国の大半では、教員給与の伸び率がそれを下回っている。社会全体の所得水準が伸びたのに、教員給与が追いつかないとなると、当然予想されるのは、教職志願者の減少である。若者は教職への魅力を失い、他のもっと恵まれた分野を目指すようになる。
いずれにせよ、こうした教員の大量退職という事態の到来を受け、各国が一様に危惧しているのは、いかにして新規教員の質を維持するかという点である。つまり人々が恐れているのは、教員の頭数が揃うか揃わないかではなく、意欲をもった教員を確保できるかどうかである。学校に子どもを通わせているが、果たしてまともで、秩序立った教育が行われているのか、こうした疑問・不安・危惧が、今やどこの国でも共通になっている。なかでも近年OECDから報告されたPISAの結果は、広い危機感をもたらした。いくつかの国では「ピサ・ショック」が巻き起こった。しかし多くの市民はPISAの結果がでる前から、漠然と学校に対して、疑惑の目を向け始めていた。父母が恐れ、一般市民が危惧していたのは、単なる学力低下ではない。むしろ、教室内の秩序の解体、いじめ、学級崩壊など、教師が子どもたちを統制できなくなっているのではないか、という恐れであった。つまり「学校のメルトダウン」がすでに始まっているのではないかという危機感があった。
この危機感は、同時に地域社会の問題とも結びついている。どこの国でも義務教育は、子供が歩いて通える範囲内にある、その地域の学校で受けるのが普通である。ところが、地域とは、だいたい同じ程度の生活レベルを持った家庭が集まることが多い。どうしても、豊かな地域、そうでない地域に分かれがちである。そうすると、義務教育段階から、どういう地域に住むかで、子供の学力の伸びも変わってくる。つまり学力低下は、地域ごとの学力格差をもたらし、もしかしたら、この学力格差が子どもたちの将来を決め、大人社会での格差につながっているのではないかという不安感を引き起こした。
現在、多くの国で共通の悩みは、学級内の秩序を保つことが、次第に難しくなっているという事実である。最悪の場合には、子供が学校へいっても、まともな授業が受けられないことになる。かつてのように、子供を扱うのは、「誰にでもできるやさしい仕事」ではなく、体力・気力・忍耐力を必要とする仕事に変わろうとしている。ただ世間ではこれを教師の指導力低下と見がちだが、それだけではなかろう。この現代では教職とは、神経的負担が重く、かつ具体的な成果を上げ難い仕事になり、おまけに経済的報酬もはかばかしくない職となった。これが若い世代の間で吸引力を失った理由である。教員大量脱出―学校溶解のシナリオは、もしかしたら、正確に未来を予言しているのかもしれない。
(日本での教員大量退職時代の到来)
しかし、教員の大量退職時代の到来という問題は、海外の他国の問題ではない。日本もまさに同じ問題に直面しようとしている。推計の詳細は別のところで論じたので、ここでは割愛するが(http://www.ushiogi.com/juyou.html)、日本でも首都圏、近畿圏では今後10年以内に、小・中学校の教員の25%が定年を迎える。OECDの20%退職よりももっと早い速度で定年退職者の増加が生じる。こうして変化の兆候は、すでに教員採用数の増加となって具体的に現れ始めている。第1図と第2図は、全国の小・中学校教員採用試験の受験者数と採用者数の動きをみたものである。少し先まで遡ってみると、公立小・中学校の教員採用数は、ピーク時は約20、000人規模に達していた。ところが、2000年度(平成12年度)には6356名と、ピーク時の3分の1にまで落ち込んだ。こうした採用数の減少のなかで、教員養成課程の入学定員の大幅削減が行われ、2004年度には9730名まで削減された。こうした入学定員の削減策にもかかわらず、教職への就職は激甚を極め、その競争率は10倍以上の高水準にあった。せっかく教員養成課程を卒業しても教職には就職できず、長い期間待機するものもあった。
ところが2001年度(平成13年度)以降は事情が変わり始め、教員採用数が増加しはじめた。多くの人々はこの回復基調をみて、「春の到来」と名づけた。

上記の二つのグラフは、最近年の状況を示したものであるが、採用回復の著しいのは、小学校教員の場合である。平成12年度では、受験者総数46,156名に対して採用者はわずか3,683名。その競争率は12.5倍という高率に達していた。ところが平成13年度以降は、採用者数の増加とともに、競争率は年々低下を続け、平成16年度には4.6倍にまで低下した。また中学校教員の場合を見ると、平成12年度は競争率18倍という高水準にあったが、その後の採用者数の回復とともに、平成16年度には12倍にまで低下している。
まさに「春の到来」を思わせるものがあるが、しかし世間の声は、必ずしも明るくはない。いったいこれで教員の質は保たれるのかという危惧が、広がっている。先にもあげたように、平成16年度の小学校教員採用試験の競争倍率は4.8倍だが、これはあくまでも全国平均の数字で、場所によっては2倍近くになっているところがあるといわれている。2倍という競争倍率は、ふつうの大学入試ではきわめて危機的な倍率である。大学入試と教員採用試験とを同列に語れないが、この競争倍率の低下を危惧する声があることを無視できない。
(求められる教員像)
多くの両親、世間が求めているのは、意欲を持った、指導力を備えた教員であるが、問題はそれどうやって確保できるかという点である。これまでの議論の流れを見ていると、「意欲をもった、優れた教員の確保」という目的では同じでも、その目標達成のための手段、手法に大きな違いがある。そこには大きな二つの流れがあった。一つは教員免許状の基準を高め、大学在学期間の養成訓練を強化することで、教員の質を確保維持しようする方向と(それは同時に安易な免許状発行に歯止めをかけること)、もう一つはそれとはまったく逆に、教員免許状制度そのものを否定し、教員採用試験には誰でも挑戦できるよう、開放度を高め、幅広い教員志願者を集め、そのなかから適任者を選ぶという方向である。この二つの流れの典型的な対立が、昨年(2004年)生じた文科省と規制改革・民間開放推進会議との対立であろう。
この議論の対立点を触れる前に、現在、教員免許状がどの程度の規模で、またどのような養成訓練をもとに発行されているのか、その点を押さえておく必要があるだろう。第二次世界大戦後の教員養成制度を形作った基本原則の一つとして「開放制度」がある。この場合の「開放制度」とは、2つの意味を持っており、まず第一には、教員養成だけを目的とする学校を設け、もっぱら教員のみを目標に養成する戦前期の師範学校に対する批判をベースにして、より「開放的な」教員養成が必要だという発想である。要するに、もっと広い視野を持った教員が必要だという期待が、この「開放制度」という方針には込められていた。「開放制度」のもう一つの意味は、教員養成機能を特定の種類の大学だけに限定するのではなく、広く一般大学にまで広げ、これら一般大学でも教員養成機能を担えるようにするという意味での「開放制度」である。
この後者の意味での「開放制度」はじゅうぶんに実態化した。現状を見てみると、国公私を合わせて、4年制大学の8割、短期大学の5割強が何らかの教員養成の認定課程を持っている。つまり認定課程を持たない大学の方が少数派である。そしてこれらの大学から、年々約20万程度(平成14年度では175,000)の教員免許状が発行されている。当然のことながら、日本全体で見ても、それだけの教員の需要はない。実際に、小・中・高等学校の教員として採用される者は、そのなかの15,000名程度で、教員免許状取得者のうち、14%に過ぎない。つまり毎年約15万人近くのペーパーティーチャー(教員免許状を取るだけで、実際に教員にならない者)が作り出されていることになる。これが開放制度の実態である。
確かにこれだけ多くの者が教職科目を学び、教育実習を体験すれば、たとえ教員にならなくても、親として子どもに接する時、あるいは学校に協力する時など、その経験が役立つという見方もある。しかし、その反面、そのために学校現場がいかに「荒される」のか、大教室でのマスプロ教育が、本当に「教職への理解」を深めることになるのか、そのことを考えると、綺麗ごとではすまない。
(免許状大量生産の現場)
この辺の実情を理解するためには、この大量の教員免許状が実際にどのような形で取得されているのか、その実情を説明しなければならない。まず、大学側の状況を見ると、経営的には、「うちの大学に来れば教員免許状が取れる」という謳い文句は、受験生を集める上で有利である。そこでどこの大学も、教職課程を用意する。ところが、その教職課程の現状は、まず教職科目の授業は、一日の一番早い時間とか遅い時間とかに追いやられ、しかも1教室に何百人もの受講生を押し込んだマスプロ教育となる。こういう教科を担当している教員は、受講生が多いため、出欠の確認さえとれない。学生もその授業は出欠をとらないことを知っているので、ふだんの授業にはほとんど出席しない。試験の時だけ姿を現して、適当な答案を書いて単位の取得を目指す。それを知って黙って単位を出す教員もいるし、不合格にする教員もいる。試験の答案があまりにも不真面目なので、不合格にしたところ、学生からねじ込まれた教員がいる。その学生は担当教員に面と向かって、こういったという。「教職科目などという、どうでもいい科目は、黙って単位させ出せばよい」。
もっときめ細かい指導には、教職科目担当教員の増員は必要となる。しかし、経営側は、できるだけ安い経費で、「うちの大学では教員免許状がとれます」という看板だけは維持しようとするので、教員増などあまり考えない。つまり大学経営陣の頭の中では、教員免許状が取得できるという謳い文句だけが重要で、その質・内容はどうでもいいのである。この点は、教職科目の単位など、ごたごたいわず出すのが当たり前と思いこんでいる学生と、大学経営陣は、利害が一致している。かくして、毎年実質的な養成・教育抜きで、大量の教員免許状が発行されることになる。
ちなみに、一般大学の卒業生のうち、教員免許状を手にする者は、12%に過ぎず、そのなかで実際に教員に採用される者はわずか7%(教員免許状取得者の)にすぎない(全卒業者中、わずか0.8%)。大量の教員免許状が発行されていても、実際の教員としての定着率はきわめて低い。
さらに「開放制度」が抱える問題点は、教育実習である。教員免許状をとるには、大学の講義単位だけでは足りない。その上に一定期間の教育実習が必要となる。つまり毎年17万人規模の者が、教育実習を受けるために学校現場に出かけてゆく。そのために学校現場は受け入れ態勢の整備、実習生の実地指導など、諸々の業務が重なり、多忙の極致に達する。将来同僚教員になる大学生のためと思えばこそ、学校現場も無理を承知に受け入れてはいるが、本音は「果たしてこのなかの何人が実際に教員になるのか」と疑っている。これだけ学校現場が努力しても、結局のところ、実際に教員になる者は、ごく寥々たる数ではないか、こういう人こそ教員になってもらいたい、と思う人がいても、そういう人に限って、あっさり教職をけって、他の職についてしまう。こういうことを毎年経験していると、教育実習への協力といっても、むなしい気分になる。これは現場教員の偽らざる感情であろう。
こうした実情を目にすると、教員免許基準の引き上げ策が、果たして「意欲に富んだ優れた教員確保」にとって効果的なのか、疑問に思えてくる。教職専門科目の必修単位を増やしても、大学側が最小のコストで済まそうとする限り、マンモス授業が益々マンモス化し、学生は益々最小限の労力で単位だけは掠め取る方向に流れる。教育実習期間を延長すれば、学校現場が悲鳴をあげ、現場での指導が単なる形式に流れることになる。
こうした教員免許状の乱発状況は、結果的には教職の社会的地位低下を招いている事実を見逃すべきではない。教員とは誰でもなれるもの、ごく形式的な単位そろえることでなれるもの、出席不良を理由に、単位を出さない教員がいれば、脅してでも単位を出させるもの。こうしたカルチャーが教職の地位低下を作り出してきた。
(教員免許状は必要か)
平成16年11月30日、規制改革・民間開放推進会議は「文部科学省の義務教育改革に関する緊急提言」を行った。この緊急提言の狙いは、その直前、文部科学省から提起された「教員養成のための専門職大学院構想」への批判・反対である。かねてからこの会議は、さまざまな分野での規制緩和・撤廃を主張してきたが、この教職専門職大学院構想に対しては、これによって、教員市場の独占が行われるのではないか、という警戒心を示した。この緊急提言はただそれに止まらず、教員免許制度そのものにも批判的な目を向けている。「教員免許制度自体を抜本的に見直すべきであり、それを強化したり、より重い意味を持たせるという政策は問題が多い」として、「免許授与の際には人物等教員としての適格性を総合的に判断する仕組みとはなっていない」、「常勤教員採用に当たって教員免許を要求すること自体、免許はなくても優れた教育的資質を持った者が教壇に立つことを阻んでおり、教員の資質向上や教員任用の公平性を損なっている」としている。
要するに、規制改革・民間開放推進会議の立場は、教員採用試験はいかなる者にも開放されるべきであり、それを教員免許所有者だけに限定することは、公平な競争を妨げ、優れた人材の誘致を阻んでいる、と見ている。つまり明確な文言にはなっていないが、教員免許状制度そのものの撤廃が、その背後にはあるとみるべきであろう。
(制度見直しの必要性)
戦後、すでに60年以上の歳月が流れ、大学進学率10%以下の時代から、現在では50%以上が大学へ進学する時代が到来した。かつてはそれなりの意味を持っていた制度も、新たな時代環境のなかで、改めて見直す必要があるだろう。教員免許状制度、開放制度、教員養成を目的とする大学・学部など、戦後の教員養成制度の根幹をなしてきた制度も、改めて、その基礎から考え直す必要がある。
現在、学校とか教員に向けられている不信感は根深い。しかし不信感といっても、それは決して、教科内容についての知識量とか、教え方の巧拙などへの不信感ではない。親達の不信感の原因は、学級内の秩序を保つ力量が劣っている、いじめ児童・生徒を統制しきれない、反抗する児童・生徒を抑えることができない、逆に児童・生徒にからかわれる、学級崩壊などの異常事態への対応が不十分である、などなどの教師の指導力にある。
しかし、それを教員個人個人の資質・能力に求めるのは、正しいことではない。かつては社会全体が教師を尊敬し、先生のいうことは絶対なものとして、親達も社会全体も、こうした「権威」に依存してきた。しかし現代とは、あらゆる種類の「権威」が、成り立たなくなった時代である。確かに形だけの「権威」は無用であろう。しかし、社会生活には秩序が必要であり、その秩序は何らかの「権威」がなければ、成り立たない。現代は、こうして「権威」を否定することで、「秩序」をも失いつつある。教室内の秩序の崩壊は、その象徴であり、学校はすでにメルトダウンし始めている。
「教員の大量脱出―学校溶解のシナリオ」。これがOECDの描き出したシナリオであったが、我々が恐れなければならないのは、現に教員が教室内にいるにもかかわらず、学習そのものが成り立たず、それが溶け出すという「学習の溶解」である。学校の溶解は、社会そのものの溶解である。(以上)