市場競争下の大学経営
潮木守一
1.日本高等教育学会の発足とその時代背景
日本高等教育学会の設立が提案され、第1回の設立総会が開かれた時のことである。その会場には、実にさまざまな背景を持った人々が集まっていた。国立大学の学長、私立大学の学長、私立大学の理事長、理事、文部省関係者、国立大学の教員、公立大学の教員、私立大学の教員、学部長、平教員、新聞社の記者、ジャーナルの編集者、高等教育専攻の大学院生など、さまざまである。発会式のパーティーの席上、関連学会である日本教育社会学会の会長として、挨拶を述べる機会を与えられ、筆者は壇上から「やがてこの学会は乱闘の場となるかもしれない」と語った。別に他意はなく、ごく自然に頭の中にあったことを語っただけである。ところが壇を降りる筆者を待ちかまえていたのは、「なんて不吉な挨拶をするのか。これから新しい学会が始まるというお目出たい席なのに、失礼ではないか」といった非難から始まって、「そういう当人こそが、乱闘の起こるのを期待しているのではないのか」といったさまざまな意見を投げかけられた。こうした批評を聞かされながら、筆者はなかば狐につままれた思いでいた。ここに集まった人々は、本当にこの学会が乱闘、怒号、混乱の場にはならないと思い込んでいるのだろうか。もしそうだとしたら、人々はこの学会の出現に何を期待し、何を予感しているのだろうか。その設立総会からすでに4年の歳月が流れたが、幸いにも、筆者の予感ははずれ、いまだかって日本高等教育学会が乱闘の場となったという話しは聞いたことがない。
これは本学会にとって慶賀とすべきことなのか、それとも、はしなくも本学会が眠り込んでいる証拠とみるべきなのか、筆者の心境は単純ではない。しかしながら、昨今の高等教育界を見ていると、乱闘寸前の兆候がさまざまな形で現れている。現にあの設立総会時に有していた肩書きを、いまだに全うできている人は、果たして何人いるのであろうか。現在の高等教育界はまさに波瀾ぶくみで、この不安定な時代を背景として発足した本学会が乱闘・怒号の場と化しても、少しも不思議ではない。
それでは筆者は何を根拠として、本学会が乱闘の場と化するというのか。対立、波瀾、乱闘の種は、いうまでもなく、18歳人口の激減から生じる大学間競争の激化であり、それにともなって発生する各キャンパス内での軋轢、対立、抗争にある。つまりもっと具体的にいえば、我が日本高等教育学会会員相互間で、その立場、身分、背景の違いを反映した抗争、対立が始まるということである。その意味で、現在本学会ほど相対立し合う利害関係者を抱えた学会は他にはあるまい。
しかしそうはいうものの、われわれの眼前で、会員相互が乱闘を交わす光景を見たいと思うものはおるまい。筆者の目からみる限り、現在起きている現象は、いうなれば、沈みかけた船の船客が、先を争って一斉に一等客室目指し、他人を押しのけて逃げ込もうとしている「タイタニック現象」である。ただ現実のタイタニック号事件と異なる点は、船全体が沈んでしまうわけではなく、また乗船者全員が溺れてしまうわけではないのに、それにも関わらず、全員が恐怖心にかられ、パニック状態に陥っている点にある。日本の大学システムの一部(全部ではない)は、依然として日本社会のなかで、その存在意義と必要性が認められているにもかかわらず、あたかもすべての大学まで沈みかけているような錯覚にとらわれ、目標のない改革に向けて漂流を始めている点が問題と思える。
今必要なことは、各方面からなされる「大学バッシング」の声に惑わされことなく、自信喪失に陥ることなく、大局的視野に立って、現状と将来をつとめて冷静にみつめることであろう。現在起きていることは、長年続いた18歳人口の急増というバブル期が終了し、バブル期に過剰に膨張した部分に淘汰が及ぼうとしているだけである。日本の高等教育は明らかにバブル期に贅肉をつけすぎたのだから、その贅肉を取り除くことが現代の課題である。600に及ぶ日本の大学がすべてすべてこの18歳人口減少期に生き残れるはずがない。またその必要もない。潰れる大学がでて当然であろう。我々にとっての問題は、いくつかの大学が倒産、閉鎖、併合されることではない。問題の焦点はもっと先にある。それは「知識社会」の到来という新事態を受けて、大学をいかに再編成するかであり、「情報化社会」の到来とともに、知識の生産方法、伝達方式、蓄積方法が大幅に変化する中で、大学をいかに再編成するかであり、さらにいえば、知識のグローバリゼイション化のなかにあって、いかに日本の大学を世界標準に適合したものに再編成してゆくかである。
しかしながら、本論文ではこうした大テーマは論じる余裕がない。それは別の機会に譲ることにする。むしろ本論文では、もう少し目線を下げて、より現実に即したテーマを検討することにしたい。第一のテーマは、大学間競争の激化が個々の大学の内部組織に、どのような影響を与え、現在いかなる内紛要因、軋轢要因が醸成されつつあるかというテーマである。つまり、これまで理事会と教授会という、法律によってその設置を定められてきた機関の機能が、市場競争の激化のなかで、どのように変わり、その変化がいかなる不安定要因として働きはじめているのかというテーマである。
第二のテーマは、これまで日本の高等教育を支えてきた、子供の教育のためには労苦を厭わない「けなげな親世代」の消滅というテーマである。別な言葉でいえば、「役に立たない大学には金を払わなく」なった親世代の出現である。今や大学は市場競争のなかでライバル大学と競争するだけでなく、「役に立たない大学には金を払わなく」なった親世代と競争しなければならなくなった。市場原理のより徹底化が進行し、それは親子関係にまで及び、その結果、これまでバブル的な成長を遂げた日本の高等教育が、その支持基盤から揺らぎ始めたという問題である。まず第一のテーマから検討に入ることにしよう。
2.学部教授会の弱体化とその結果
市川昭午氏は「未来形の大学」のなかで、現代の高等教育の変貌の特長のひとつを、「学者共同体から企業経営体へ」と表現している(市川。2001)。市川氏は言う。かつての大学の中心人物は教授達であり、その彼等が教授内容を決定し、試験内容を選び、大学の経営管理に当たってきた。「しかしながら、90年代初頭には管理者による統制が完了し、管理業務を専門とする人々による企業型執行部の専任事項に変わってしまった。従来、教員は事務職員や秘書などとは違って、ファカルティは雇用されるのではなく、任用されるのであり、共同体の構成員であって、被雇用者ではないとされてきた。しかし今や大学の巨大化と管理運営のトップ・マネイジメント化にともなって、教員は管理運営にほとんど発言権を持たない被雇用者として取り扱う傾向が生まれている」。
市川氏のこの指摘は、日本の内外の動向を視野に入れた上での指摘である。同氏が指摘するように、これまで大学内で実権を掌握してきた学部教授会が表舞台から姿を消し、それに代わる新たな実権者が登場しようとしている。いや、より正確に述べるならば、教授会は表舞台を退いたが、この「新たな実権者」の姿がまだはっきり見えていないという不安定状態、混乱状態、混迷状態に、現在の大学を取り巻く問題状況がある。改めて断るまでもなく、これまでの大学では、カリキュラムを決めるのも、試験の方法を決めるのも、学部・学科の名称・構成・性格を決めるのも、すべて学部教授会であった。まさに「教授会自治」が、国立であろうと私立であろうと、設置者の相違を超えて日本の大学を支配してきた。ところで、今や多くの大学で「教授会自治」が消滅し、ほとんど壊滅状態に陥っている。
しかし、こういう筆者の指摘に対しては、反論も多いことであろう。たとえば、「いや、我が大学では入試科目を決めているのは、あくまでも教授会であって、教授会以外にこの事項に介入できる機関は何もない」といった答が返ってくることであろう。こういう回答に対しては筆者は尋ねたい。「この受験生激減時代に、少しでも多くの受験生を獲得するため、受験科目数を削減したり、試験内容を安易化したり、さらには
AO入試や一芸入試を導入したり、これらの「改革」はどうして起こっているのですか。教授会の自主的な判断で、これらの「改革」がなされているのですか。もしそうだとしたら、状況分析が少しずれていませんか。これの「改革」の主導者は当の学部教授会ではなく、「受験生市場」ではないのですか。時代の主人公はいまや受験生市場に移り、学部教授会はこの市場の圧力に押し捲られているだけではないのですか」。あるいは「教授会自治の消滅」を指摘する筆者の立論に対して、次のように同意を表する大学経営陣(国公私立を問わず)もいることであろう。「大学激動の時代を受けて、うちの大学では大改革を導入した。学部教授会などという無責任体制は根本から改革し、大学経営陣に権限を集中させ、何事も大学経営陣が決定することにした。次年度の入試科目をどうするかなどは、いちいち学部教授会にはかけない。万事われわれ大学経営陣が決めている。この頃の学部教授会はおとなしいもので、それでも何も文句はいわない」。こう答える経営者には、次のような質問を呈す必要があるだろう。「確かに学部教授会のような烏合の衆に任せていたら、一向に埒が明かないことでしょう。これほど波乱に満ちた時代には、臨機応変かつ機敏な大学経営が必要で、そのためには理事会主導型の大学経営をとる必要があるのでしょう。しかし、権限を一点に集中させることは、同時に危険を一点に集中させることになり、その肝心な司令塔が判断を誤った時には、組織全体が危機に晒される結果となるでしょう。一点集中主義は効率的でしょうが、その反面では危機管理機能が働かなくなることではないでしょうか。これからの変転極まりない時代の中を生き延びてゆくには、なによりも危機管理機能を強化する必要があるのではないでしょうか」。
最近では、営利企業体との類比のなかで、大学経営における権限集中化が推奨されることが多い。しかしこうした論で、案外見落とされているのが、危険分散・危機管理の発想である。これからの波乱含みの大学経営にとっては、危機管理は、受験生対策、大学のイメージ戦略以上に重要な側面である。一極に権限を集中化させれば、組織体としての効率は高まるかもしれないが、その反面では危機管理機能は確実に低下する。さまざまな権限を集中させた当の機関が、いったん判断を誤った場合、それを阻止するメカニズムがない。このことはとくに私立大学にとって深刻である。もともと国立大学、公立大学の場合には、何と言っても設置者の監督の目が光っている。これに対して、私立大学の場合には、理事会が最高機関であるだけに、いったん理事会が誤った判断を犯した時、その被害は大学全体に及ぶ。これまでは、良しきにつけ悪しきにつけ、教授会が理事会をチェックする機能を果たしてきた。しかしながら最近のように、教授会が無力化すると、かえって理事会が独走、もしくは暴走する危険性が増してくる。
つまるところ、大学間競争が激化するなかで、各大学は内部組織を変更しなければならなくなった。構成員数ばかり多く、機動性に欠ける学部教授会に、すべての決定を委ねる従来型の大学経営では、新たな環境に対応しきれなくなった。そこで多くの大学で、教授会の権限を縮小させ、それに代わって学長職もしくは理事会の権限を拡大させたり、あるいは学長職の機能を強化するために、学長補佐機関を設けたり、さらには教員ではなく、職員の専門的知識を大学運営に積極的に取り入れる方法が採用されている。
このような内部組織の再編成が、実際にどの程度、どのような形で進行しているのかは、高等教育研究にとっては重要なテーマではあるが、その実態を把握することはきわめて困難である。おそらくこれまでよく使われてきた質問紙調査法では、その実態に迫ることは不可能であろう。そうなると、残るのはデプス・インタービューによるケース分析となるが、デプス・インタービューといっても、個々の大学の内部事情が関わっているだけに、そう簡単にインタービューに応じてくれる関係者がいるとは思えない。最後に残るのは、参与観察だが、この方法の最大の欠陥は、対象数が限定されてくることと、参与している当人による分析バイアスが防止できない、という点である。
このように現状把握でさえ困難なのに、ましてや、こうした再編成が大学経営の総体にいかなる効果をもたらしたのかを、現時点で客観的な立場から評価を下すことはさらに困難である。従来よりも権限を強化させた理事会が、従来の教授会に勝る、より適切・妥当な大学経営が実行できているか否かが評価基準となるが、理事会、教授会ともに、一つの言葉では括れないほど多様である。教授会がその資質・能力において一様ではなかったように、理事会もまたその資質・能力において一様ではない。高等教育研究は、無限のケース羅列に終わるのか、それとも何がしかの一般化に踏み出すのか、分かれ目に立たされている。以下の記述は、限られた情報をもととした一般化に向けての一つの試みである。
3.専門職員の機能拡大
さまざまな事例を通じて共通していえることは、トップ・ダウン方式の導入とともに、これまでとかくその存在・役割が軽視されてきた大学職員の専門性が、大学運営のなかで重視され、活用されるようになった点である。今や大学経営は、入試戦略、改組転換戦略、宣伝戦略、就職戦略、資金戦略、人事戦略などを含んだ、多面的な活動となった。これらの戦略の立案・実行には、大学内外からの情報を集め、それをもとに作戦を練るというシステム管理、情報管理的な活動が必要となった。具体的な事例として、入試戦略の場合をとってみよう。最近、多くの大学で多様な入試方式を採用するにつれて、入試戦略そのものが複雑化した。周囲の大学、ライバル大学がいかなる方式を導入するのか、環境条件はたえず変化しているし、受験生の動向もまた毎年のように変化している。こうした状況のなかで、いかなる入試戦略を立てるかは、次第に教授会の能力を超えはじめている。その代わりに、たえず受験生情報を集め、他大学の動向に目を配り、受験情報産業とも接触を保っている専門職員が欠かせなくなる。それとともに、教授会の入試方針を決定する権限は縮小され、ごく形式的なものになってゆく。同様なことは、改組転換戦略、宣伝戦略、就職戦略、資金戦略、人事戦略などの各側面に及んでいる。
しかしながら、教員のなかには依然として、教授会中心の意識が強く、大学職員を単なる事務担当者、あるいは教員の補助者としかみない者がいる。トップ・ダウン方式導入の問題点は、この種の教員層との葛藤・軋轢である。この種の教員層は、大学を取り巻く環境変化にもかかわらず、依然として古典的な「教授会自治論」に固着する。ここに、大学経営陣がトップ・ダウン方式に傾く根拠がある。よく事情も知らないにも関わらず、発言権だけは主張する大学教員よりも、専門職員の情報に依存する方が、臨機応変、機動的な大学経営ができる。その結果、経営陣は教授会の意見を求めるよりも、専門職員の意見を求めるケースが多くなる。そして、大学経営層と少数の専門職員とで、重要事項が決定され、教授会にはその結果だけが報告されることになる。これが「古典的教授会自治論」と衝突し、内紛要因の一つになる。
しかしながら、複雑化した入試戦略の策定が、単に教授会の能力を超えたばかりでなく、同時にまた理事会の能力をも超えていることは明白である。理事会は私立大学の最高機関とはいえ、その選任基準、選任方法、その構成等を見た場合、教授会と同様に、近年の複雑化した大学運営の細部を見渡す立場にいるわけではない。理事会もまた専門職員へ依存しなければ、さまざまな方針、戦略が立てられなくなる。教授会が、専門職員の作成した戦略に、ごく形式的な承認を与えるだけの機関となってゆくのと同様、理事会もまたごく形式的な承認を与えるだけの機関となってゆく。このように大学間競争が激化すればするほど、大学職員の専門的知識が重要視され、大学全体が専門職員の専門性に依存することになる。
しかしながら、これはこれで新たな問題を引き起こす。一つには責任所在の問題であり、それと裏腹の関係にある危機管理の問題であり、更には、職員の専門性の水準・質がいかにして担保・保障されるかという問題である。責任問題についていえば、本来、理事会なり、教授会が決定しなければならない事項であるにも関わらず、それが困難となった結果、その部分を専門職員に依存しているのだから、責任は依然として理事会なり、教授会が負わなければならない。アメリカのように、大学・学部の建て直しを依頼され、契約書のなかに達成目標を明記し、その達成度において成功報酬を受け取るような大学経営の専門職はいまだ日本には成立していない。このように全責任を負って大学運営に当たるタイプの大学経営の専門職もまた、日本ではまだ成立してない。またそのような人材を需要したり供給したりする市場の形成も不十分であり、成熟していない。
より重要な問題として、大学職員の専門性への依存度が高くなるにつれて、その専門性それ自体の質が、改めて問われることになる。つまり一口に「専門性」とはいうが、現状では、それほど強固な基盤の上に、その品質保障がなされているわけではない。今後、大学経営にとって専門職員の存在が重要となるが、その質的向上は将来に残された課題である。すでに、この目的のために、専門学会が成立したり、大学アドミニストレイター養成を目指す大学院コースが設置されたり、各種の研修会、ワークショップなどが開催されたり、その機運はじゅうぶんに出来ている。しかしこの分野での緊急な課題は、大学経営に関するノウハウの体系化・一般化である。この問題は大学アドミニストレイター養成を目指す大学院コースの教育内容をどう編成するか、誰が担当するのかという具体的問題に直結する。体系化・一般化を目指すとしたら、一箇所の大学だけの経験ではなく、複数大学を横断面的に経験し、その経験をもとに、体系化・一般化を図らなければならない。しかし、現状では大学職員が複数の大学を横断的に渡り歩き、そこから経験を蓄積してゆくというキャリア・パスはほとんど用意されていない。そうだとしたら、それぞれがその大学固有の個別体験を持ち寄り、共同作業を通じて一般化、体系化を図るしかない。
このように、大学職員の専門性に対する依存が増加するが、そこにはメリットもあるがデメリットもある。最大の問題は危機管理である。教授会、理事会にそれぞれ固有の限界があるように、今や両者が依存度を高めている職員の専門性もまた、現状では、大幅な権限を移譲するだけの品質保証、信頼性を担保しえているわけではない。要するに、大学を構成する各単位は、それぞれ固有の情報を持っているが、その情報はあくまでも、その単位固有のもので、その枠を超えるものではない。人間の判断はこうした個別的な知識・経験に拘束されがちである。適切な戦略を策定するためには(あるいは、少なくとも誤った判断を防ぐためには)、これら各単位間での情報の交流、ネットワークが不可欠である。
トップ・ダウン方式の欠陥は、情報の流れが一方的になり、双方向型にならない点である。つまりそれだけ有効な相互チェックが働かなくなり、内部から発せられる警告情報を吸い上げられなくなる点である。大学の経営不振、倒産、閉鎖といった現象は、単に収支決算上のことではなく、必ずそこに至るまでに、学内対立、学内抗争というヒューマン・ファクターを伴うのがふつうである。
社団法人日本私立大学連盟経営委員会が平成13年11月20日の発表した「学校法人の経営困難回避策とクライシス・マネジメント(中間報告)」は、「学校法人理事選任の意識転換」の項で、こういっている。「一般には理事会の円滑運営を理由に、理事長にとって都合の良い人のみを選任するケースが多いようである。このような理事会では常に「シャンシャン」でまとまり、何の問題もないように見える。しかし、いったん危機に直面した場合にはいかがであろうか。状況に応じて適切な方針や判断を示すことのできる能力と決断力を持った「辛口理事」を迎えることにより、たとえ審議が遷延したり、紛糾したりするとしても、それによる「負荷」は、後にくる「難題」を十分に軽減し、また回避することができる」。
4.大学経営とその責任主体
18歳人口の減少は、大学の市場環境を一変させた。日本の大学が「市場」という存在を本格的に意識したのは、これが最初のことであろう。これまで黙っていてもお客さんは集まり、卒業生はそこそこ売れていった。問題は、こうした「市場の変化」に対する大学のセンシティビティーである。今日ほど大学業界で「経営的センス」「経営的発想」が叫ばれる時代はない。確かにこれまでの国公立大学は低授業料に保護され、恵まれた施設設備、教授陣に守られ、あえて「経営」を考える必要がなかった。しかしそのことは私立大学でもまったく同様で、18歳人口が右肩上がりで伸びてきた時代には、あえて「経営」を考える必要がなかった。誰がやっても大学経営は、それなりに動いてきた。少なくとも失敗することはなかった。要するに時代環境がよかった。
しかしこれからは違う。環境がまったく違ってくる。それとともに、誰が大学経営の主体となるかが課題となる。国立大学が法人化の方向にある昨今、果たして新たに登場する「国立大学法人」を経営しうる人材を、日本の高等教育界は育成してきたのかが問われている。この問いに対する回答は、悲観論、楽観論が入り混じっている。これからの熾烈な環境を考えた時、それにふさわしい中核人材はいないといったら、どこにもいない。しかし逆にみれば、その気になって探せば、どこにでもいる。大学経営陣、教授陣、職員層どこにでもいる。必要とあれば、政界、官界、実業界から連れてきてもよい。問題の核心は、それらの人材をどのように組み合わせ、どういう組織、機構に形作るかで、その具体像がいまだに誰にも見えていない点にある。
先にも触れたように、この問題は、現在議論の焦点となっている国立大学の場合には、さらに深刻である。新たな組織形態に変った国立大学の大学経営の舵取りをするのは誰なのか。すでに述べてきたように、私立大学でさえ「大学経営人材」を育成してこなかったのに、国立大学はさらに輪をかけて育成してきていない。今後の国立大学は、これまで以上の自律性と自己責任をもった経営体に変わることは必至だが、いったい誰が経営の舵取りをするのであろうか。
これまでの議論を見ている限り、どのように改革されても、国立大学は依然として手厚い特権によって保護されることになるらしい。学科、講座、カリキュラム等の改変、再編成は自由に、学部別定員、学科別定員の改定も自由にということだが、授業料は依然として国家統制のもとにおかれることになるらしい。しかし授業料水準を自ら決める権限(ないしは責任)なしに、いかなる「経営」があるのだろうか。学部別定員、学科別定員は何を基準として決定しようというのであろうか。
その点、私学経営者が「我々こそが大学経営をしてきた」と胸を張るのは、根拠のないことではない。たえずライバル大学の動向に目を配り、受験生の動向に目を光らせ、世論の動きを敏感に察知しつつ、授業料水準を決め、教職員給与を決め、基本金組み入れ額を決め、収支バランスに神経を尖らせてきたのは、私立大学だからである。
それに比して国立大学を支配してきたのは、各学部、各学科、各講座、各教員の自己増殖本能でしかない。どこかの学部の人気が落ち、受験生が減っても、その学部の学生定員を削減し、他学部、他学科に移したり、教員定数を移し変えたりする荒治療は、選挙で選出された任期3年、4年程度の学長の手に負える仕事ではない。結局、何かの新規事業を予算請求する時、監督官庁から指摘を受けて、改革をすることになる。
5.自己増殖型改革と市場対応型改革
これまでの国立大学に可能だったのは、既成の組織には一切手をつけず、新たな学部、学科、講座などを追加する、自己増殖型の改革だった。これまでの国立大学の「改革」は、こうした
add-on型の改革になりがちだった。何か新しいものを文部科学省から取ってくる段になると、国立大学は全学を挙げた挙国一致体制を作り上げる。つまり自分達の身分・特権が侵されない限り、大学全体としては増えることはいいことで、学部であろうと、大学院であろうと、研究所であろうと、講座であろうと、その獲得に懸命となる。既存の体制になんら手をつけることなしに、新たな追加予算、追加施設等を文部科学省から獲得してくる学長、学部長が優れた行政手腕の持ち主として高く評価されることになる。こうした体制は、納税者の目から見たら、無責任千万な話であることは、断るまでもない。とうに歴史的使命を終えた学部、学科、講座、研究所等の維持経費は、すべて納税者の負担となる。国の立場からすれば、こうした状況を手をこまねいて看過することはできないので、組織改革・組織新設を図るときには、かならず既存組織の見直しを求め、新規事業を認めるとしても、人員に関しては丸々の純増ではなく、既存定員からの拠出を求めることになる。しかしながら、どの学部、どの学科、どの講座をとっても、自分の口から時代遅れになった、歴史的使命を終えた、定員を拠出してもいいと、正面切っていう者はいない。結局のところ、国立大学には、既存のものには一切手をつけず、新たなものを追加するという
add-on型の改革しができなかったのは、このためである。この点、私立大学では万事自立自営で経営していかねばならないので、学生の集まらない学科、学部、科目をいつまでも残しておくことはできない。人気の落ちた学部、学科は名称を変更し、カリキュラムを変え、受験生消費者のニーヅに対応してゆかねばならない。それも一頃までのように、いちいち文部省の認可を受け、大学設置審議会の審査が必要だった時代はとうに去り、今や大幅に規制が緩和され、ほとんどのことは私立大学独自の判断で転換・改組が可能となった。つまり、国立大学とは異なって、私立大学は自分のところさえ決断すれば、身軽に、そして機敏に、時代の変化に対応して、自己改造が可能となった。ここに小田原評定に終始しがちな学部教授会に見切りをつけ、大学経営陣がトップ・ダウン方式で、生き残り戦略に打って出るチャンスが到来した
ただ、市場競争それ自体は、善悪両面を兼ね備えたもので、大学教育という、本来継続性が必要な活動にとって、常に整合的であるわけではない。たとえば、近年における受験市場の過剰なまでの短期的変化はその例であろう。たとえば、いったん○○学科が人気学科という風評が立つと、受験生は雪崩を打ってその学科に向かう。それをみて大学側は大学側で、一斉にその○○学科の新増設に向かって走り出す。つまり、大学側も受験生側も高校側の保護者側も、またそれを取り巻く受験情報産業も、一頭がある方向に向かって走り出すと、群れ全体がその方向に向かって走り出すという「バファロー現象」が繰り返し発生している。
近年、この傾向に拍車をかけているのが、「資格ブーム」である。受験生も保護者も高校の進路指導教員も、「資格」を求める。この傾向をみて、大学側もこうした受験生対応を図るため、「資格」の取れる学部・学科を設け、受験案内で「資格取得」を売り出すことになる。その資格も実質的な意味のある資格ならばまだしも、なかにはおよそ就職面では何らのメリットもない資格でも、資格がとれるという理由だけで「バファロー現象」が発生している。
ハーバード大学の文理大学院学部長を勤めたロソフスキーは、「大学は、収支決算だけで動いてはならない。市場の変化だけに対応してはいけない。それは大学にとってよくないだけでなく、社会のためにもよくない」といっている(ロソフスキー、1992)。しかし、この言葉はハーバード大学だからいえることで、日本の大学の多くはハーバードの真似などしていられない。いや正確に言えば、日本にもこのロソフスキーの言葉通り、この混乱に満ちた時代を、毅然と「動かざること山の如し」を実行して貰いたい大学がある。こういう大学こそ、ロソフスキー・ドクトリンを貫いて貰いたいが、残念ながらそういう大学は数が限られている。しかも、そのような大学でさえ市場の動向に過敏に揺れ動いている点に、大学をめぐる混迷があるように思える。
6.ダンピング戦略と人件費削減策
一頃、減少を続ける受験生を引き止めるため、新名称学部、学科の新設が相次いだ。しかし今や新名称学部、新名称学科は、かえってある種の「いかがわしさ」の代名詞となろうとしている。ニューファッションが通用しないとすれば、残る策はダンピング策、ディスカウント策である。つまり、授業料の値下げ策である。しかしいきなり、授業料の値下げ策に行くのではなく、その前段階として、授業料はそのままにしておいて、奨学金制度を導入する策がとられることが多い。この方式は最近、多くの私立大学で採用されている。具体的には、特別の入試を実施し、高得点を上げた学生に、授業料全免、あるいは半免として合格させる方法がとられる。
この方式はうまく導入すると、受験生の人気を集め、多数の受験生が応募するので、その受験料収入だけで、奨学金の原資部分を捻出できることがあるらしい。現にこの就学金制度を導入することによって、成績優秀者を確保するとともに、その原資まで確保することに成功した大学があるという。まさに一石二鳥の効果をもつことができる。しかし、それだけ多くの受験生を引き付けるには、それなりの知名度をもった大学であることが必要で、そうでない大学では、原資を捻出するほどの受験生を集めることはできない。しかし、この受験生減少時代に少しでも優秀な受験生を、早めに確保するには、有効な方法として多くの私立大学が導入してきている。
本格的な授業料値下げ策は、人件費総額の削減策と平行して導入するしかない。この人件費削減策もいくつかの段階があって、まず最初に手をつけるのは、非常勤講師の削減と職員定員の削減策である。非常勤講師はもっとも削減しやすい対象として、まず削減の対象となる。しかし非常勤講師を削減するには、その分だけ、専任教員の持ちコマを増やさなければならない。日本私立大学協会大学教務研究委員会が実施した調査結果によると、平成8年度の場合、専任教員の担当授業コマ数が5.7コマだったのが、平成12年度には平均7.0コマと、過去4年間に1.3コマ増えている。(日本私立大学協会。2001年。64−67頁)。
こうした専任教員の担当授業コマ数増の背後には、非常勤講師の削減と並んで、専任教員数の削減があったことは、じゅうぶんに予想される。いくつかの事例からみると、基準専任教員数と実専任教員数との比率は、大学によって、学部によってかなり差がみられる。基準数ぎりぎりの大学・学部がある反面、かなり基準数を上回っている大学・学部も見られる。基準数を上回っている大学・学部では、現在、教員定員の削減が進んでいるといわれている。これが専任教員の持ちコマ増の、もう一つの要因であったのであろう。ただ、こうした結果にたどり着くまで、どこの大学でもそれなりの紆余曲折があったことは、じゅうぶんに予想される。専任教員の賃金カットを回避するためには、まずは専任教員の持ちコマを増やし、総人件費の抑制を図るしかない。労使間でのこうした妥協が、この背後には控えている。
非常勤講師の削減は、経営者からすれば、比較的容易なことだが、大学職員の削減はそれほど容易とは思えない。これは職員の労働条件にかかわるから、本来ならば組合との交渉事項になる。しかし私立大学の職員の組合組織率は千差万別で、職員組合の交渉能力もまちまちである。もともと大学職員はほとんどの場合、ひとつの大学に採用されると、一生涯をその大学ですごすことになる。教員と違って、他の職場へ変わる可能性がほとんどない。そうなると、たとえ労働条件が悪化しても、経営陣に対して強くものをいうことができない。労働強化に耐えるしかない。それが職員削減を容易にしている。しかし、こうした日常的な不満が内向すると、士気の低下をもたらすだけでなく、人間関係を悪化させる。これからの大学にとっては、今まで以上に学内紛争の予防、防止が必要となるが、その火の元は教員だけではない。職員の存在を無視した大学経営は、危機管理上、危険度が高いとみるべきであろう。
さらに職員の削減は、ある限度を超えると、事務処理の停滞ばかりでなく、教育活動の劣化をもたらす。私立大学の場合、バブル時代には、かなりの教育補助要員を抱えていたらしいが、それが削減されることによって、教員の作業量が増加している。たとえば、教材作成作業や日常の出欠チェックなどは、かつては教育補助要員の仕事だったが、今では教員の作業となっている。つまり、それだけ教員の作業負担が増加していることになる。こうなると教員の方は、最低必要限の教育サービスで済まそうとする。一例をあげれば、これまで学生のレポートに添削を加えて返していたのを、やめるといった教育活動の水準低下が発生する。
このように人件費削減策にはいくつかの方法があるが、更なる人件費削減が必要な場合には、いよいよ教職員給与の削減策に踏み切ることになる。人間はいったん獲得した既得権はなかなか離したがらない。しかしながら、この不況時代に民間企業ではリストラ、賃金カット、賞与カットなど、実質的な賃金削減が続いているなか、大学教職員だけがそれを免れていることはできない。いつまでも高い人件費を支払い、授業料ディスカウント策を導入できない大学は、いずれは受験生が集まらなくなる。経営陣、教職員とも、大学あっての経営陣であり、教職員なのだから、大学を潰すことはできない。この時、ものをいうのが、常日頃の労使関係であろう。労使間の信頼関係が成り立っている大学では、経営陣、教職員が一体感を作り出せようが、ふだんから労使間不信・対立・緊張を抱えている大学は、そうはいかない。つまりこういう局面でこそ、経営の質が試されることになる。
7.
PR戦略と沈黙戦略の時代以上、現在の大学が抱えているさまざまな内紛要因をみてきたが、すべての大学関係者が求めているのは、こうした内紛、抗争、対立を防ぐにはどうしたらよいのかという処方箋である。ところが残念ながら、その処方箋を書く人がいない。たとえ誰かが処方箋を持っていても、それを公表する人がいない。各大学とも、大なり小なり内紛要因を抱えているためか、最近では理事長、学長ばかりが集まった会合にでると、必ずといっていいほど、あからさまな教授会批判、教員批判が繰り返される。他方、教職員だけの会合にでると、今度は理事会批判、経営陣批判が繰り返される。この伝でゆけば、多種各様な構成員を抱えた我が日本高等教育学会こそ、激しい議論の場になって当然であろうが、相互の暗黙の規制が働くためか、それともこのような場で議論しても具体的な成果がないと見限られているためか、議論が発展する気配がない。
ただこれをもって日本高等教育学会が機能していないと断定するには、いくつかの留保が必要である。最近の特徴として、我が日本高等教育学会に限らず、高等教育関係のシンポジウム、講演会、討論会に出て行っても、議論が白熱するためしがない。だいたい、そういう会場で、発言する人がいなくなった。それでいて聴衆は大勢集まっている。この会場溢れんばかりの聴衆と、低調な議論のコントラストは、実に奇妙で不気味でさえある。しかし筆者には、こうなる原因が、何となく理解できるような気がする。要するに、みな情報は欲しがっている。他の大学、ライバル大学が何を密かに企んでいるのか、なにか起死回生の手立てがないか、こういう情報に対する需要はきわめて高い。聴衆はそういう情報を求めてやってくるが、絶対に自分からは発言しない。へたに発言すれば、アイディアを盗まれる、敵に塩を送ることになる、こちらの手の内を読まれるだけで終わる。会場にはあふれんばかりの聴衆が詰めかけているのに、議論が肝心なところに及ぶと、一斉に口をつむぐ光景は、ほとんど異様というほかない。聴衆は集まるが、話題提案者がいない時代。情報を求める者はいるが、情報を提供する者がいない時代。観客はいるが、出演者のいない時代。これが現代の特徴であるらしい。
8.市場原理の取り込まれる親子関係
市場原理、競争原理は高等教育全体を巻き込みつつあるが、今ではかなり根深い部分まで浸透し始めている。高等教育がこれまで経験したことのないような次元にまで、浸透しはじめている。これまでの高等教育を支えてきた土台にまでが市場原理に浸食され、その土台が掘り崩されようとしている。最後にこの問題を取り上げておこう。
最近、大学を中途退学する学生が増えてきた。直接会って事情を聞いてみると、親がリストラに会ったから、失業したらからというものが多い。雇用状況の悪化が家計を圧迫し、学業の継続を困難にしている。だがしかし理由はそれだけではなさそうである。その背景にはもう一つ別のメカニズムが働きはじめているように思える。そのメカニズムとは親子関係の変質である。かつての親はたとえ所得が減っても、さまざまな方策を講じて、子供の学費を工面したものである。なにしろ子供は「家の宝」だったから。ところが最近では子供は「家の宝」ではなくなった。親からみると、子供とはお金ばかりかかり、その割合には見返りのすくない「お荷物」になり始めた。いつまでも親のすねを齧られてはたまらない。高校までだしてやったのだから、あとは自分でやりなさい。現在、じわじわと家族内での子供の地位が変り始めたらしい。「家の宝」から「家のお荷物」への転落である。
柏木恵子のよると、1984年に世界銀行が24カ国を対象に実施した調査「あなたにとって子どもはどのような満足をもたらしていますか」という質問に対する回答をみると、「子どもの労働が親に役立つ、稼いだお金を家計に入れる」といった経済的・実用的価値をあげる割合は、ペルー、コスタリカ、コロンビア、メキシコ、タイでは70%を超えている。これらはいずれも国民所得水準の低い国である。これに対して、日本、ベルギー、アメリカ、オーストラリアのような先進諸国では、「子どもの労働が親に役立つ、稼いだお金を家計に入れる」と答えた者は10%以下でしかない。つまり先進諸国では子どもは収入源とはみなされていないし、期待もされていない。それどころか、稼ぎ手としてはゼロという地位を通り越して、ただお金ばかりがかかる存在となりはじめている。
日本女子教育会の調査によると、日本、韓国、タイでは「子どもはお金のかかる存在だ」と答える者は30%前後にしかならないのに、アメリカ、イギリス、スエーデンでは9割近くのものがそう答えている。柏木はいう。「日本を除くアメリカ、イギリス、スエーデンなど欧米工業国では、子どもは”お金のかかる存在”とさえみなされています。つまり、子どもは経済的にはマイナスだというのです。ここでは、子どもは、実用的価値や経済的価値を持つ生産財ではない、それどころか消費財、しかもお金のかかる消費財とみなされているのです」(柏木、2001年、13−14頁)。
上記の日本女子教育会の調査結果では、日本はまだ欧米のように、子供を「金のかかる消費財」ととらえる傾向が少ないが、この日本も急速に欧米型に近づき、今や「家の宝」から「家のお荷物」に転落しつつあるようにみえる。それでは、こうした子供の地位の変化を引き起こしたものは何なのだろうか。その背景をよくよく探ってゆくと、単に親がそれだけ不人情になったとか、家族の緊密さが低下したとか、親子間の一体性が弛緩したとか、そういった心理的変化だけが原因ではなさそうである。その背後には「親子関係の市場経済化」とでもいうべき現象が進行しているように思える。「親子関係の市場経済化」とは耳慣れない言葉であるが、要するに親子関係が損得勘定で測られるようになったということである。
一頃までの親は、金銭勘定抜きで、子供のことを考えた。親子関係とは金銭勘定を超越したところに成り立っていた。ところが最近では親が金銭勘定を基準にして子供との関係を考えるようになったらしい。それではどうして親子関係に金銭勘定が入り込むことになったのか。どうして「親子関係の市場経済化」が進行したのであろうか。その原因はどうやら、「介護ケアの市場経済化」にあるらしいというのが、筆者の仮説である。
たとえば、大学生を抱える確率がもっとも高い50歳台の親をとってみよう。この世代の親は、老後子供の世話になろうとは考えていない。だいたい子供を信用していない。国民選好度調査によると、「老後を主として子供に面倒を見てもらう」と答えた者が、1978年には17%いたが、1996年には6%にまで減少した。それなら公的な社会保障制度ならば信用できるのか。最近の議論からよくわかるように、これがまったく信用できない。どうやら介護ケアまでが市場化され、各自手持ちの資産に応じて、身分相応な介護ケアを購入せよということらしい。そうだとすれば、ふだんから心掛けて、そのための資金を準備するしかない。その証拠に、国民選好度調査によると、50歳台に貯蓄の目的を尋ねた結果によると、1964年には5割は「子供の教育・結婚のため」で、「老後の生活資金」と答える割合は43%だった。ところが1986年には両者が逆転して、さらに1997年になると「子供の教育・結婚のため」とするものは44%に減少し、「老後の生活資金」と答えた者は67%に増えている。今の親は、子供の将来を考えて貯金するのではなく、自分達の老後の備えのために貯金するようになっている。
もともと、子供に投資しても、親の手元に帰ってくる利益が少ないことは、昔から分かっていた。それでも親はこうした損得計算を超えて子供への支出を惜しまなかった。親子関係とは、こうした損得勘定を越えたところに成り立っていた。ところが最近ではそれがそうではなくなり始めた。子供のために投資するか、それとも自分の老後のために投資するか、損得勘定で計算するようになった。つまり介護ケアの市場経済化は、親子関係の市場経済化を引き起こした。今や市場一元主義は、ビジネスの世界を越え、家族の領域にまで浸透しはじめた。
これまで日本の高等教育を支えてきたのは、自分の老後よりも、子供の将来を考える「けなげな親」であった。ところが今やその基盤が崩れようとしている。今の親は、自分達の老後を犠牲にしてまで、子供を大学に通わせようとは考えていない。家計が苦しくなれば、躊躇することなく子供の大学を辞めさせる。今や大学にとって競争相手はライバル大学だけではない。「役に立たない大学のために金は出さない」と思い始めた親こそが、強力なライバルである。
以上が家族というミクロな世界の内部での変化であるが、これをマクロ社会のなかで位置付けてみるとどういう光景が見えてくるか。一つの家族の内部では、限られた資産を子供の教育のために使うか、それとも親の老後の生活のために使うか、という選択問題となるが、これを国家財政のレベルでみると、限られた公財政収入のうち、高等教育費と老人福祉費とのバランスをどうするかという問題となる。高等教育費も老人福祉費も、今では多くの国で公財政支出のなかでは大きな割合を占めている。一方を増やせば、一方を削らねばならない。両者は、事実上のトレイド・オフの関係にある。
しかも日本だけに限らず、先進諸国はどこでも高齢化問題を抱えており、老人福祉費の増加は必至である。その上、ヨーロッパ大陸諸国は、70年代以降、社会福祉政策の一環として、高等教育の無償化政策を導入した。その結果、今では公財政中に占める高等教育費比率は高水準のまま、硬直状態に陥っている。なぜ西欧諸国が無償制高等教育を導入したのか。それは早い時期から親世代が、子供が親の荷物であることに気づいたからである。親が高等教育費を負担せず、しかし国際競争を勝ち抜く人材を育成するとすれば、国家が高等教育費を負担するしかなかった。
こうした高等教育政策も、税収の伸びが期待される高度経済成長期には、支障がなかった。ところが低経済成長期を迎え、税収の伸びが止まるとともに、高額の高等教育費と老人福祉費のどちらを優先させるかが、政治的争点となる。要するに、家計レベルでの争点が、そのまま国家財政のレベルでも論じられることになる。
このように今や高等教育は幾重もの競争環境のなかに晒されている。競争相手はライバル大学だけではない。「役に立たない大学には、金を出さなくなった親」こそ、大学の最大の競争相手である。いったい、この高等教育は、誰によって、どのような経営方針のもとに運営されようとしているのだろうか。我々は大学経営に責任と能力を備えた人材を、育成してきたのであろうか。日本高等教育学会の責任は重い。
参考文献
市川昭午「未来形の大学」。玉川大学出版部。(2001年)
ヘンリー・ロソフスキー著、佐藤隆三訳「ロソフスキー教授の大学の未来へ」(1992年)
柏木恵子「子どもという価値」中央公論新社(2001年)
日本私立大学協会大学教務研究委員会「平成12年度調査 大学教務に関する実態調査 集計結果」(2001年)
社団法人日本私立大学連盟経営委員会「学校法人の経営困難回避策とクライシス・マネジメント(中間報告)」(平成13年11月20日)