大学教授の100年     潮木守一

1901年はノーベル賞が制定された年である。それ以来、数多くの学者がノーベル賞を受賞したが、その多くは大学の教師であった。制定当時はそれほど社会的関心を集めなかったようだが、時代が下るにつれてノーベル賞の社会的評価は高まった。それとともに、ノーベル賞受賞者を生み出す大学という組織に対する社会的関心が集まり、大学教師という存在の社会的評価もまた高まった。

長い人類の歴史のなかで、学問研究に高い社会的評価が与えられるようになったのは、それほど古いことではない。そもそも学問研究が一つの職業となり、研究をすることで生計が維持できるようになったのは、たかだか最近百数十年のことでしかない。よく人々は、大学という制度は古い制度だというが、大学の役割、大学教師の役割は、あくまでも若者に学問を教えることであり、教師に課せられた役割とは、悪戯盛りの若者を監督することであった。学問研究が大学教師の職務となったのは、長い人類史上、また大学史上、ごく最近のことでしかない。

若者相手にものを教えるということは、その多くが同じことの繰り返しである。ましてはあらゆる規則をかいくぐり、あらゆる種類の悪戯を繰り返す若者を監督することは、際限のない徒労で終わる。だから歴代の大学教師は、自分の職業をのろった。その事例はすでに他のところで書いているので、ここでは繰り返さない。これに対して、学問研究とは未知の世界への挑戦であり、既存の理論の転覆を図るきわめてスリリングな営みである。いかなる人間も単調な繰り返しには耐えられないが、一夜にして人類未踏の理論に到達する可能性を秘めた研究には没頭を惜しまない。ましてや、新たな理論を発見することが、高い社会的賞賛をもたらし、金銭的な報酬となって返ってくることを発見した時、多くの大学教師(とその予備軍)が「知の狩人」となった。

それとともに、大学もまた大きく変貌することとなった。大学はこうした「知の狩人」達に、仕事場を提供し、学問研究に没頭できる時間を提供する制度として、その装いを改めた。かくしてここに教育機関としての大学とは異なった、研究を職務とする大学、「研究大学」という独特な制度が登場した。今から150年ほど前のことである。それとともに、同じことを繰り返し教える教師、学生の悪戯を見張る教師とは異なった、新たな知的発見を目指す「研究者」という職業が登場した。こうした過程のなかから登場した「研究大学」には、それが成立した時から、矛盾対立の種が蒔かれていた。時間とエネルギーを教育に割くべきか、それとも研究に割くべきか。学生を教えることのなかに生甲斐を見つけるべきか、それとも学問研究の中に生甲斐を求めるべきか、この対立を抱えながら、大学教師は生きることとなった。

もう一度繰り返すが、同じことを毎年毎年繰り返し教えることが楽しいはずがない。それと比較すれば、まだ誰も知らない理論を発見することの方が、はるかにスリルに満ちている。教師の目をかいくぐり、できるだけサボろうとする学生に、いくら情熱を込めて教えたところで、その成果が学園というローカルな範囲を超えて評価されることはない。しかし、新たな理論の発見、新たな知見を盛り込んだ業績の発表は、学園というローカルな範囲を超え、全国的な舞台の上で、さらには国境を越えた評価を勝ち取ることができる。「研究大学」が抱えた矛盾とは、アイデンティティを学園というローカル・コミュニティーに求めるべきか、それを超えた場に求めるかの対立だったといってもよい。

だから過去100年間の「研究大学」の歴史は、学生の存在を忘れる歴史、学生の教育を無視する歴史だった。すでに1889年、アメリカの哲学者チャールズ・S・パースは「センチュリー・ディクショナリー」の「大学」の項目を執筆した時、「大学は授業と関係がない」と書き込んだ。アメリカ最初の大学院大学として名高いジョンズ・ホプキンス大学のローランド教授は、彼のクラスの学生数さえ知らなかった。驚いたインタービュアーが「あなたは普段学生とどう接しているのですか」と尋ねたところ、彼は「学生のことは無視している」と答えたという。第1回ノーベル化学賞受賞者のファント・ホフは「20年も毎年毎年、過マンガン酸カリウムは酸化物である、などと繰り返していると、頭がおかしくなります。私は学生に講義をしたり、試験をしたりしないでよい場所を探しているのです。」といって、ベルリン大学からの招聘を断った。

「研究と教育の統一」を説いたのは、19世紀初頭のドイツの学者行政官であったウィエウヘルム・フォン・フンボルトである。ベルリン大学は1810年、彼の強い思想的影響のもとに創立された。ところが、それから100年たった、ベルリン大学創立100周年記念の席上、時のドイツ皇帝ウィルヘルム二世は「いまや我々に必要なのは、大学という枠を越え、教えるという義務に妨げられることなく、もっぱら研究だけを目的とする機関を作り出すことである」と演説した。「研究と教育の統一」というスローガンを掲げたフンボルトを賞賛し、顕彰すべき栄光の日に、皇帝自らの口から、それとはまったく逆の「研究と教育の分離」が提案されたのである。この事実が雄弁に物語るように、「研究大学」には始まったその瞬間から、自己解体のモーメントが組み込まれていた。

この「研究大学」の自己解体を防いでいたのは、まがりなりにも秘教的な価値が大学にまとわりついている間だけのことであった。大学教育の内情を知る学生達は、無意味な学習を強制する大学教育を呪ったが、そこが発行する卒業証書が何がしかの価値を持つ限り、あからさまな反抗を企てることはなかった。高い授業料を払う両親、多額の大学運営費を負担する納税者もまた、大学教育の「外部効果」(大学教育を受ける人間が増えれば、その人間ばかりでなく、社会全体に利益が及ぶという信仰)を信じている限り、あからさまな支払い拒否を申し立てることはなかった。

しかし、大学の膨張の結果、卒業証書の市場価値が下落し、かつてはプラスの効果を持つと信じられてきた「外部効果」もまた、かえってマイナスの効果が目立ってくるとともに、両親も納税者もまた、大学に対する支払い拒否の態度を表明するようになった。納税者、両親、学生が求め始めたのは、「役に立つ教育」、「市場価値のある資格」、「投資に見合うだけの付加価値」であった。「研究大学」での「研究」が評価されるのは、あくまでも、その大学のネームバリューを上げる限りでのことで、そうでない研究は無価値なものとして無視されることとなった。

もともと、「研究大学」が育成した「知の狩人」とは、「自分で皮の目隠しをかけ、自分の魂が救われるかどうかは、ある写本のある個所を正しく判読できるかどうかにかかっている、と思い込んでいる」タイプの人間である(マックス・ウェーバー)。彼等がかろうじて価値観を共有できたのは、教室の最前列に席を取り、教師の口から出てくる言葉を期待に心膨らませながら待ち構えているタイプの学生でしかなかった。「野球帽を反対にかぶり、教室の後ろにかまえ、さあ何か面白いことをいってみな」とふんぞり返っている学生ではなかった(ピーター・サックス)。しかし、いつの時代をとっても、いかなる社会をとっても、「風呂敷包みを解き、深夜までかかって書き上げられた原稿を読み上げる教師」の姿に心振るわせたのは(青木生子)、ほんの一握りの学生でしかなかった。「研究大学」で無視され、「不真面目な学生」と決め付けられた学生は、運動に身を置くか(文字通りの身体運動か、あるいは社会運動、政治運動)、マージャン、パチンコ、ロックバンド、映画などに青春の証をかけるほかなかった。

しかし、そういつまでも教師は「研究」に夢中になり(あるいはそういうふりをし)、学生はレジャーランドを満喫し、卒業生を採用する企業側が「大学で余計なことを教わってこない方がいい。訓練はこちらがやるから」と、いっていられるわけではない。不況時代の到来とともに、両親、学生は投資に見合う「付加価値」を求め、納税者は「大学教育のアカウンタビリティ」を求め始めた。両親、学生は学費投資者として、大学の市場価値を見定めて行動するようになった。納税者は大学教育への投資効果を明らかにすることを求め、評価に基づく予算配分、ペナルティを求めるようになった。

今や大学にとっての最大のキーワードは「経営」であり、いかにして受験生をひきつけ、いかにして卒業生を売り込むか、いかにして経費を削減し、人員を削減するかが、重要なテーマとなり始めた。それとともに、「意識改革」が叫ばれ、大学教師は「意識改革」がもっとも必要な人種として、社会的非難の的とされることとなった。

しかし、「研究大学」が過去150年間に培ってきた大学教師像とは、学生に背を向け(「それが最大の教育になる」という教育理念に裏づけされていた)、「大学経営といった俗事」(学問がだめになった人間が学内運営に熱中する)に軽蔑のまなざしを向けるよう訓練されてきた人種であった。サラリーマンはサラリーマンになった時から、将来の社長を目指して学習を始めるが、大学教師になった時から、将来の学長を夢見て勉強を始めたという人間は、いまだかって聞いたことがない。しかしそれでも大学には一人は学長がいなければならない。そこでしかたなく、誰かを「人身御供」のようにして選び出すことになる。選挙で一票を投じる時、同僚として心の中で痛みを感じなかった者はおるまい。そのようにして選ばれた人物に「大学経営」を考えよと注文する方が無理というものである。

このように大学教師のキャリアとは、きわめて特異なもので、ある年齢に達すると、それまでは腹の底で嫌っていた仕事を、「選挙の結果」という暴力装置によって、強制的に押し付けられることになる。それまで、身につけようと思ったこともなければ、自ら訓練・学習しようと思ったこともない思考様式・能力を、突如として発揮しなければならない立場に置かれる。これほどキャリア形成上、能力開発上、連続性を欠いたキャリアは他にあるのだろうか。

さらにまた、近年におけるデジタル革命の進展は、知識の蓄積者、知識の伝達者、知識の選択者、知識のゲイトキーパーとしての大学教師の役割に、本質的な疑問、疑惑を投じるにいたった。ピーター・サックスはいう。「学生が情報を、CDROMドライブのボタン一発で、より早く、また、おそらくよりよく得られるようになれば、情報の伝達者としての伝統的な教授の役割は、ほとんどゼロに等しくみえる」「ポストモダニティによる権威の脱正統化と、それが、知識を「それで何が分かるか」ではなく、「それで何ができるか」と等しいものにしたときに、それは、教授の時代の死を告げる鐘を鳴らしたのである。確立した知識を伝達するにあたって、教授は、メモリーバンク、ネットワークより有能ではない」。

大学はもはや「研究者」の生きる場がなくなったが、知識の伝達者としての存在意義もまた、デジタル革命のなかで失われようとしている。ピーター・サックスは、ポストモダンの大学に必要なのは、(1)情報収集の道具の使用方法についてのガイド役と、(2)機械やデータベースでは得られない、学問の微妙な複雑さを、学生が理解できるよう刺激する解説者だといっているが、おそらくポストモダンの学生にとって「学問の微妙な複雑さ」など、もっとも需要の少ないものであろう。

「研究大学」は学生に後姿をみせることが最大の教育となるという前提で成り立っていたが、ポストモダンの大学教師は真正面から学生を見据えなけばならなくなった。かつて、学生を真正面にみすえる「教育大学」に求められたのは、学生の規律、日常生活に監視の目を光らせる警官型教員だったが、このポストモダンの時代にそれが通用するわけがない。Edutainment という最近の新造語が象徴するように、今の時代には「面白く」なければ通用しなくなった。ただ肝心な問題はその「面白さ」の中身である。ポストモダンの大学の課題は、何にこの「面白さ」を発見するかにかかっている。絶望もせず、あきらめることもなく、そして怒りを捨てて、ポストモダンの大学教師は、この時代の大転換を受け入れることが求められているのだろう。

(参考文献)

青木生子「目白の丘生田の森」講談社、1993

潮木守一「ドイツの大学」講談社学術文庫。1992

潮木守一「アメリカの大学」講談社学術文庫。1993

潮木守一「ドイツ近代科学を支えた官僚」。中公新書。1993。(現在品切れ、2000年10月より中公新書e版に所収。

http://www.paburi.com/paburi/publisher/ck/index.shtml 参照)

ピーター・サックス「恐るべきお子さま大学生たち」草思社。2000