ポスト・グーテンベルク革命

国際開発研究科教授

潮木守一

附属図書館長

(このエッセイは名古屋大学大型計算機センターニュースの第111号(Vol.27、No.3,pp.183-184, 1996年8月)に発表された)


最近、同学の士を募って、電子ジャーナルを発刊しようと呼びかけている。あらためて説明するまでもないことだが、筆者が頭に描いている電子ジャーナルとは、研究者が各自自力で自分のパソコン上に論文を書き、それをインターネットを通じて広く公表するというものである。なぜこのようなことを考え出したか、いくつか理由がある。まず第一に筆者のような専門分野は、もともと幅広い読者層などというものはなく、採算ベースにのる雑誌など発刊する可能性がない。このことは単行本を出版する場合も同じで、どこの出版社へいっても原稿をみただけでまず顔をしかめる。要するに、いろいろ研究しても、その成果を活字にして世に問う機会がない。その結果、優れた研究がまったく日の目を見ずに終わることがよくある。 こういうマイナーな専門分野にとっては、結局のところ、各大学の出す紀要が貴重な発表舞台となる。そこでまず研究成果を大学の紀要に発表し、その別刷を同学に士に送るという方法がとられる。ところが御存知のように、別刷という代物はもらっても正直言って始末に困る。よほど丹念に保存整理に努めないと、すぐどこかへ紛れ込んでしまう。そこでいざ必要となると、図書館に駆けつけ、その大学の紀要に当たることになる。ところが、大学の紀要は利用頻度が低いということで、大抵の場合、図書館の一番隅に追いやられている。しかも何年分かまとめられて製本されているから、かさばっている。その重くて厚い製本のなかから、目指す論文を探し出すのは、けっこう手間が掛かる。薄暗い図書館の地下室で、分厚い紀要の束をくくりながら目指す論文を探しだす作業は、あまり愉快ではない。

それ以上にもっと致命的な欠陥は、そこに載せられているデータが必ずしも完全ではないという点である。つまり予算上の制約から、一定の枚数内に収める必要があるため、大事な情報がカットされている。とくに図表のようにコストのかかるデータ、あるいはその調査に使ったクエッショネアのように分量がかさばるもの、その分析に使用した基礎統計類など、多くのものが収録されていない。お互いに使用したデータを公表した上で、議論をつめる必要がある場合でも、それができない。これらはいずれも、紙に印刷するという従来型の方法に依存する限り、つきまとう制約である。

これにくらべてインターネットを利用すれば、論文の長さ制限を気にする必要はないし、図だろうが表だろうが、統計データであろうが、いくらでも載せられる。しかもいちいち出版社と交渉したり、だししぶる編集者を口説き落としたり、そういう手間が省ける。それに保存面でも便利で、いざという時にいくらでも自由に引き出せる。

それ以上にもっと都合に良いことに、誰かの論文を引用する時、その論文が電子ジャーナルに載せられている場合には、そこへリンクを張ることによって、その引用個所をクリックするだけで、その論文の全文を即座にパソコン画面上に引き出すことができる。今までのように、引用されている論文の著者名、引用されたジャーナル名、書名などをメモして図書館に駆けつけるといった必要がない。だから将来、すべての人々がすべての論文を電子ジャーナルに発表するようになれば、印刷物としてのジャーナル、本が消滅するだけでなく、図書館はいらなくなり、書斎もいらなくなる。まさに「ポスト・グーテンベルク革命」が始まろうとしている。

このようにわずかな技術を習得するだけで、研究者は自分の思い通りになる出版社を持てることになる。これこそ長年、我々が待ち望んでいた文明の利器である。そこで大いにこれを活用して、各自自力で研究成果をインターネット上で発表しようと仲間に呼びかけるとともに、なによりも言いだしっぺが実行しなければ話にならないので、一つの実験として自分の論文をインターネット上に発表することにした。関心のある方は、http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/user/prof/p1ushiogimをご覧になって頂きたい。

しかしながら、この方式に対して不安の念を抱く人々がかなりいる。その不安とは、このことによって、情報の洪水、氾濫が生じるのではないか、その情報の洪水、氾濫から、どうやって自分達を防御することができるのかという不安である。確かにいわれるように、利用者が増えるにつれて、全国各地から一斉にインターネット上に論文が発表されるようになるだろう。誰でも何時でもどこでも、思う存分に研究成果を発表できるのだから、研究者にとってこれほど有り難いことはない。しかしながらその反面、そのようにして続々と生産される情報の質はいかにして担保されるのであろうか。専門学会のジャーナルにはレフリーがいて、彼等が情報の質を管理してくれている(ただしレフリーの理解力を超えた独創的な論文は、採択されないという欠陥があることは周知の事実)。出版社には編集者がおり、彼等が情報の質を担保してくれている(これもまた万全でないことは周知の事実)。ところがインターネットの世界には、レフリーもいなければ、検閲官もいない。最終的には、利用者自身が内容を判断して取捨選択するほかないということになるが、だれしもそれほど時間の余裕があるとは思えない。

こういうふうに考えてゆくと、だんだん将来が暗くなってゆくのだが、筆者はそれほど悲観していない。無秩序のなかから、どういう原理で、どういう新しい秩序が作り出されてゆくのか、これはかなりスリルのある課題である。現に筆者のみたカナダの電子ジャーナル, <a href="http://gpu.srv.ualberta.ca:8010/"> Electronic Journal of Sociology </A>では、審査中の論文まで「この論文が現在審査にかかっている」という注記つきで掲載されている。レフリーはレフリーで、自分のコメントを電子ジャーナルに載せている。すべてが公開というか、あけっぴろげで行われている。こういう実例をみていると、レフリーの役割も変化し、その存在の必要性さえわからなくなってくる。ここまできたならば、いっそうのことこうした方がよいのではないかと思うアイディアがあるのだが、すで規定の枚数を超えたので、将来実験を行った結果を見た上で、報告したいと思っている。

(追記)

以上までが既発表部分。以下はその後に執筆した部分

要するに情報の洪水、しかもその質が十分に担保されていない大量の情報のなかからいかにして必要で質の高い情報を選択するかが課題である。インターネットの時代を迎え、各自が勝手にどんどん情報を流し、各人が自らの見識にしたがって取捨選択すればよいとする論があるが、これはそれほど現実性のある主張とは思えない。誰しも限られた時間とエネルギーのもとで仕事をしているのだから、出てくる論文に片っ端から目を配ることはできない。なにか助けになる選択基準が必要である。

筆者の考えている案とは、ともかく発表したい人はどんどん発表してもらい、それを読む読者集団がもう一方にでき(複数)、その読者集団は読者集団で自分達なりの評価結果を発表すればよい。読者にとっては、こうした評価集団の評価結果が、選択の基準として役立つことだろう。読者は読者で読者なりの基準で、これら評価集団に一定の評価を下しながら、これグループの評価は信用できる、このグループの評価はあまり信用できない、と仕分けしてゆくことになるだろう。

これでは結局、個人で取捨選択しなければならなくなるではないかという反論があろうが、少しは労力が減るだろうというのが、小生の計算であるが、はたしてどんなものだろうか。