「モバイルと植物」時事通信「内外教育」3月27日号
久しぶりに日本での未来学の開拓者のお話しを聞く機会があった。86歳の御高齢にも関わらず、論じて止まるところを知らぬ、きわめて知的刺激に富んだお話しだった。大学教授の職を辞して就いたのが、ある研究助成財団の専務理事。この研究助成財団は、その当時の日本ではおよそ考えられない新方式を開発し、かつ実施したことで高く評価された。この日本のどこで誰が、これまでのアプローチ、パラダイムを越えるユニークな研究を手がけているか。わずかな情報を手がかりに、財団の若いプログラム・オフィサーを派遣し、研究の可能性を調べさせた。それだけでなく、自らもその研究者に会いにでかけた。まさに今風の表現を使えば「モバイル人間」の典型だった。
ところがそのうちに、ある大学の学長に推され、そのポストについた。「学長になると、そんなに自由に飛び回れない。あれはその場に根をはやす植物みたいなもの」。それまでモバイル人間として、自由な知的飛翔を求めてこられた方には、あまり充実したポストでなかったようだ。
知的活動とは新たな経験を求めて、自由自在に移動する遍歴のようなもの。ところが学校勤めとはじっと
1箇所に座り込んでする仕事。多くの大学人はこのあい矛盾する二つの義務を、いかに調整するかで頭を痛めてきた。しかし教師にとって最大の教師とは経験である。それも外から与えられた経験ではなく、自ら求め、自ら獲得した経験である。どこか1箇所にしがみついていて、いいアイディアなど生まれるはずがない。たしかに教師である以上、規定とおりの授業をするのは当然であろう。問題は几帳面に授業さえしていればよい、あるいはそうしておけば文句はいわれないという雰囲気がはびこり、あえて知的冒険を避ける傾向が蔓延することであろう。いろいろな所に、その兆候が現れているとみるのは、筆者だけの杞憂であろうか。