河野重男先生を偲んで
桜美林大学 潮木守一
日本教育社会学会の元会長、河野重男先生が2004年6月8日に逝去された。享年78歳であった。世代交代の著しい昨今、あるいは日本教育社会学会会員のなかには、先生と直接面識のなかった会員もいるかもしれない。先生は昭和29年(1954年)に東京大学教育学部を卒業されると同時に、教育社会学講座の初代助手に就任された。その当時、教育社会学の講座には、牧野巽教授、清水義弘助教授のお二人がおられ、早急に助手ポストを補充する必要があった。そこで両先生は、昭和29年度教育学部卒業生の全体を見渡し、河野先生をおいて適任者はいないと判断され、その結果、河野助手が実現したという。その当時は、新制大学の草創期にあり、とくに日本教育社会学会の創設期でもあったことから、河野助手の功績は甚大なものがあった。
その後、お茶の水女子大学の教育社会学担当の助教授、そして教授となられ、昭和62年(1987年)には同大学の学長という要職につかれた。その間、中央教育審議会の会員として目覚しい活躍をなされ、一時は同審議会の会長に擬せられたこともあった。定年退官後は、東京家政学院大学の学長となられ、同大学の発展に大きな力を振るわれた。しかしながら、間もなく病をえて、同大学学長も引退され、自宅にて静養につとめておられた。以下の文章は、小生が後輩を代表して告別式で読んだ弔辞である。
河野先生
本日ここに、先生の御霊の前に立ち、さまざまな思い出を思い起こし、万感胸に迫るものがあります。先生の生涯は、大学とともにあり、学問とともにありました。先生の生涯を決定づけたのは、昭和29年東京大学教育学部の教育社会学講座の初代助手に就任されたことでありました。その当時、世の中はまだ貧しく、将来の展望も開けておりませんでした。このような時代のなか、学問の道を志すことは、なみ大抵のことではありませんでした。しかも教育社会学という、戦後はじめて登場した新たな学問領域を選ばれ、その学問的な水準を向上させ、社会的な認知をかち取るためには、人並み以上の努力と忍耐が必要でした。
しかし先生は、その労苦の多くを、語ろうとはなさいませんでした。これまでいくたびか、御苦労の一端を聞かせていただこうと、語りかけたことはありました。しかし先生の口からは、そのような話が語られることはありませんでした。やがて機会があるだろう、そのうちに話されることもあるだろう、そう思っているうちに、ついにその機会は永遠に失われてしまいました。そのことを思うと、これほどの心残りはありません。先生を失った悲しみは、同じ思いを抱きつつ、同じ戦いを戦った、偉大な先達を失った後輩の悲しみであります。
また先生は、学長をはじめ学会長、審議会委員長など、数多くの要職を歴任されました。しかしそのお仕事振りは、自説を主張するよりも、何よりもまず、多くの人々の意見に耳を傾け、全体の流れを纏め上げるというものでした。多くの人々は、先生のこうした仕事振りを眼にし、その稀有な才能に、大きな期待をかけました。意見が分かれ、全体の調整が困難になると、人々は先生に調整役としての出馬を要請されました。そのたびに、先生はまたとない天分を発揮して、混乱する議論を纏め上げられました。しかし、こうした役回りには、外からでは見えない御心労が多かったことと思います。いったい先生は心中で、どう考えておられたのか、それを伺いたいと思うことが、しばしばありました。しかし先生は、その心中を語ることなく、先立たれてしまわれました。これも私ども後輩としては、心残りと申すしかありません。
一人の人間としての先生は、なんといっても「九州男児」でありました。文字通りの「九州男児」でした。「斗酒なお辞せず」という表現は、まことに月並みな表現ではありますが、先生の場合は、この表現以外には表現できないほど、心の底からお酒を愛されました。酔いがまわるにつれて、必ずといっていいほど、九州民謡「かりぼしきりうた」や「ひえつき節」が飛び出しました。私どもはその歌が飛び出すのを、今か今かと心待ちしながら、先生にしきりに杯を勧めたものでした。今にして思えば、それが先生の御健康を損なう原因となりました。本日ここに、ご遺族の皆様の前に立ち、先生のご健康を損なった加担者としての後ろめたさを、抑えることができません。ご遺族の方々には、ただただ申し訳なく思うばかりです。
先生は、よく面倒なことが起こると、「俺はもう九州に帰る」と言い出されました。おそらく陽光あふれる南九州は、先生の心の故郷だったのでしょう。私どもには先生の霊魂が、南国宮崎の上空を楽しげに舞い遊んでいるように思われます。
先生。長い間、困難な時代のなかを、私どもいたらぬ後輩を御指導くださり、誠にありがとうございました。これからはどうか安らかにお休みください。先生の御霊の安からんことを、お祈りするばかりです。
平成16年6月11日
後輩を代表して 桜美林大学 潮木守一
追記:後日、御遺族から伺ったお話によると、亡くなれる直前の深夜、河野先生は突然御遺族の前で「ひえつき節」を歌い出されたとのことである。