教育をいかに動機づけるか
高校50年の歴史は、戦後日本50年の歴史そのものであった。戦後、アメリカ占領軍の下で学制改革が断行され、旧制度の中等学校が新制高等学校として再編成されることとなった時、人々の間に戸惑いが生じた。その戸惑いの原因とは、この新制高校は「だれでもが通える学校」と性格づけられたことにあった。
戦前期、中等学校に進学できる者はきわめて限られていた。中等学校に進学することは、進学する当の子供にとっても、進学させる親にとっても、晴れがましいことであると同時に、なにがしかの後ろめたさをともなったことだった。多くの者が小学校卒業と同時に、労働生活(それも過酷で低賃金)に入ってゆくなかを、ごく少数の者だけがそれを免れて学校に行く。これはけっして晴れがましいだけのことではなかった。こうした屈折した雰囲気は、多くの記録に残されている。一つだけ例をあげれば、作家芹沢光次郎の場合がそうである。
貧しい漁村で生まれ育った彼の周囲には、中学校という贅沢な所へ進学する者など一人もいなかった。すべての子供が小学校を卒業すると、親と同じ職業を継いだ。ところが芹沢だけが中学校に進学したが、その途端に村人は道で彼とすれ違っても挨拶もしなくなった。こうした村人の豹変は芹沢少年の心を深く傷つけた。後年、芹沢の文名が高まり、郷土の英雄として顕彰しようという声が起きたが、芹沢はけっしてその申し出を受けいれようとはしなかった。彼は二度と足をふみ入れない覚悟で、生まれ故郷を捨てたのである。ようやく両者の間で「和解」が成立し、文豪芹沢が故郷に足をふみ入れたのは、彼がはるか晩年に達した時のことであった。
村人はどうして中学校に進学した芹沢少年を「村八分」にしたのであろうか。中学校に進学することは、貧しい農村からの脱出を保障してくれた。厳しく貧しい農業労働からの解放を約束してくれた。当時の日本の農村がどこも貧困にあえいでいた。すべての農民がひそかにこの絶望的な生活からの脱出を渇望していた。しかし望んではいても、それを手に入れる手立てはなかった。幸運にも芹沢少年はその脱出の糸口を手に入れたのである。もちろん、それは単なる僥倖ではなかったはずである。当時の激甚をもってなる入学試験にパスするには、人並み以上の才能と努力と、克己心を必要とした。芹沢少年の獲得した栄冠は、こうした少年の資質と努力の結果だった。ところが村人はその勉学心と集中力とを正面から評価しようとはしなかった。「村を捨てた者」、「おれたちとは別の人種」として、埒外に追いやろうとした。
貧しい農民からすれば、だれしもできることならわが子を中学校に進学させたかったことだろう。そういう思いを抱きながらも、それができない悔しさを腹の底に抱えていたことであろう。こうしたアンビバレントな心理状況にとって、芹沢少年の中学進学は、彼等の心理的均衡を乱す不愉快なことだったのだろう。長年貧しさのなかをあえいできた彼等にとって、腹の底に潜む葛藤を乱してもらいたくなかったのであろう。
近代日本の教育は、貧しさからの脱出と結びついていた。貧しさからの解放を約束してくれる限りにおいて、教育は強く求められ、高く期待され、評価された。真面目に学業に励むことが今の貧困から脱出させてくれる、こういう約束事が成り立つ限り、教育は信頼され、期待された。
しかし日本社会は幸いにも貧困からの脱出に成功した。もはや貧困の影におびえる必要はなくなった。それとともに、人々の教育に対する希望、期待、願いも、消滅した。それを端的に象徴したのは、NHK連続ドラマ「おしん」に対する若者達の反応であった。中年以上に評判の高かったこのドラマは、若者世代には受けなかった。その当時の若者達の「気分」を伝える記録「現代気分の基礎知識」によると、「おしん」ということばは「徴兵制」と並ぶほど「気分の悪い言葉」に選ばれている。ある女子高校生は「そんなに辛抱がいいなら、毎日我慢して学校へいっている私はえらい」とまでいっている。
中年以上の世代にとって、貧しさのため進学できない同級生はいくらでもいた。勉強したくてもできない同級生達は、懸命になって勉学の機会をみつけ、勉強しようとした。学校にかよえぬ「おしん」が、赤ん坊を背負いながら、教室の外から窓越しに文字を覚えようとする画面をみて、多くの人々が幼い日々の自分の姿と重ねてみたことであろう。あるいはその光景のなかにかつての同級生の姿を発見したことであろう。この光景は「おしん」一人に限らず、日本各地で繰り広げられていた。
この画面が雄弁に物語るように、かつての「おしん」は教室の外にいた。ところがこの現代では「おしん」は教室の中でひしめいている。多くの高校生、大学生は今や我慢しながら教室のなかにひしめいている。この逆転はどういう意味をもっているのだろうか。
かつてはごく少数の者にだけ認められていた中等教育は、いまやすべての人にとって「当たり前」のこととなった。「誰でもがかよえる高校」、「誰でもかよえる大学」。戦後の新教育が目指した理想は、みごとに達成された。しかし、誰でも入れる高校、大学は実現されたが、その途端に、高校、大学の教室から「教育」、「学習」が消滅した。高校といい、大学といい、いきたくていくところ、いきたくてもいけないところではなくなった。今では我慢してゆく所、我慢するために行く所に変わった。
もともと人間にとっては、容易に手に入らないものこそ価値があるのであって、だれでも簡単に手に入るようなものは、それだけ有難味がない。そのことは高校、大学とても同じことで、希少性が失われれば、有難味はなくなるのは当然のことであろう。ましてや、今では高校を卒業しようが、大学を出ようが、かつてのような「出世」を保障してくれるようなことはまったくない。貧困の恐怖が消滅した現代にあって、「出世」などということそれ自体が意味をもたない。教育が出世階段を登る重要な手段だったのは、貧困が世の中を支配していた限りのことで、貧困の影が消滅した以上、「立身出世」の手段としての教育という神話は通用しなくなる。
それではこの豊かな社会にあって、教育は何をもって若者を動機づければよいというのであろう。しかたなく、我慢して学校にきている若者に、何をもって学習の楽しさ、面白さを教え、まじめに勉強することから生じる利益を説得することができるのであろうか。
最近、エデュテイメントという言葉がしばしば用いられる。その意味内容は使う人によって微妙に異なっている。しかし、この言葉がもともとEducation(教育)と Entertainment(娯楽)とを結びつけて作られた言葉であることからも明らかなように、要は「楽しみながら学ぶ」ということにあるようである。いいかえれば、遊びの中に学習の要素を取り入れ、学習のなかに遊びの要素を取り入れ、その結果、「遊んでいるうちに学習できる」ことにあるようである。
もともと、人間は面白くなければ学ばない。今までの学校は面白くなくても、これを真面目に学び試験に通れば、貧困から脱出できるという神話(かなり現実味の高い神話)の上に成り立っていた。そういう段階では学校はことさら面白くなくても済んだ。しかし今はそうではない。学校が面白くなければ、学生反乱、登校拒否、校内暴力を覚悟しなければならなくなった。しからば、どうやって学校を面白くするか。しかも学校という名を維持しながら。
ある工業高校を訪問した時、そこで実施している課題学習の説明を受けた。その学校では課題学習の一環として、身体の不自由な人のために電動の車椅子を組み立て、それを福祉施設に寄贈する活動を実施している。身体の不自由な人々に合った電動車椅子を製作するには、直接、身体の不自由な人々に会って、その要望を聞き取らなければならない。そうした要望をもとに、さらに技術的な可能性を考慮に入れながら(技術的に不可能なことはいくら要望とはいっても実現できない)、出てきた要望を最大限に生かす工夫をしなければならない。このような課題を解いて行く中で、生徒たちは技術の特性とその社会的な使命との狭間を体験することになる。おそらく多くの高校生が体験することのない身障者との接触を体験し、そういう人達の生活を具体的に自分の目で体験することになる。
こういう活動が果たしてエデュテイメントと呼ばれるものの範囲に入るのか否か、筆者にはわからない。しかしこの学習の過程には単なる「楽しさ」を超えた、それ以上の意味を含んでいる。それは自分の労働の成果が、確実に他人に感謝されるという喜びである。自分が身につけた技術、技能が社会にとって何がしかの貢献をなしうるという体験である。こうした体験は、生徒達の学習への動機づけを高め、学習することの意味、目標を与えることだろう。ただ単に自分が単位をとるためとか、卒業資格を得るためとかではなく、今自分は人々が求め、社会が求める能力、技術を獲得しつつあるのだ、さらには自分は社会に役立つ人間になりつつあるのだという実感を与えることであろう。それは単なる「楽しみ」ではなく、学ぶことの意味を伝え、自分に対する自信と充実感を与えることになるのであろう。