書評
菊地城司著「近代日本における「フンボルトの理念」――福田徳三とその時代」
(広島大学大学教育研究センター。高等教育研究叢書
53 1999年3月。175頁)「現代の高等教育」No.417、2000年4月号。64−65頁
本書の主人公は、日本における経済学の草分け的存在である経済学者であり、東京高等商業学校教授、慶応義塾大学教授を歴任した福田徳三である。福田徳三は明治7年(1874年)に生まれ、当時の東京高等商業学校を卒業し、その後、明治30年(1897)3月(その当時25歳)から明治34年9月まで、4年以上にわたってドイツの大学に留学した経験の持ち主である。ドイツではライプティヒ、ミュンヒェンの各大学で学んだが、ミュンヒェン大学在学中、ルヨ・ブレンターノ教授にその才を認められ、論文「日本における社会的、経済的発展」を発表し、ミュンヒェン大学から博士号を取得している。
当時、ヨーロッパから遥か隔たったこの極東の新興国、日本から数多くの大学教授候補者達がドイツに留学した。彼等はただ単にドイツの学問ばかりでなく、ドイツの大学で行われている教育方法にも関心をよせ、それを日本の大学に移植しようとしていた。つまり彼等がこの日本に伝えようとしたのは、各専門分野の学問内容ばかりでなく、その基礎にある学問のしかた、教え方、学び方そのものであった。彼等はドイツの大学でいかなる学問に触れ、さらにはいかなる大学教育の実態に触れ、それらをいかにこの極東の地にもたらそうとしたのか、これを解明することは、学問の伝播過程を解き明かす大変スリリングが研究テーマである。すでにアメリカに関しては、19世紀末から20世紀初頭にかけて、ドイツ留学経験者がいかにしてアメリカの諸学の基礎を形成していったか、その際、ドイツの学問とそのインキュベーターともいうべきドイツの大学教育方式が、アメリカの学問と大学の在り方に、どのようなインパクトを及ぼしたか、さまざまな研究成果が出されているのに比較して、日本ではあまり多くの研究成果がでていない。菊池氏の今回の研究成果は、こうした研究上の空白を埋めようとする野心作である。
19世紀初頭、まだ学問的には後進国であったドイツが、20世紀初頭には世界の学問中心国へと発展した背景には、その大学の在り方、そこでの教育方式の在り方があったことは、今では通説になっている。また、その原動力となったのは、19世紀初頭のドイツ・イデアリスト達の説く「フンボルト理念」があったことも通説となっている。つまり、教壇の上からの一方向的な知識の伝達ばかりでなく、ゼミナール室、実験室を中心に新たな知識の発見過程に学生自身を参加させる「研究を通じての教育」という方式、学生を知識の受容者として位置づけるのではなく、「自学自習」の実行者として鍛え上げることが、ドイツを世界一流の学問大国へ押し上げる原動力となった。明治期の日本留学生がドイツの大学で発見したのは、こうした学問の在り方、研究の進め方、学習のさせ方、教育の仕方であった。
「予は諸君が予の講義を以て金科玉条的に一字一句鵜呑みにせらるることを最も厭ふものにして、成るべく疑問をより多く喚起し、由て以て更に高尚なる研究をなさんとするの念をだに諸君の胸裏に喚起することをえば予が願は即ち足れり」
これは明治36年、ドイツからの帰国間もない福田が書いた一文である。福田がこの学問後進国に移植しようとしたのは、すでに出来上がった学問成果の結果ではなく、学問の仕方、研究の仕方であったことは、この一文からも明らかである。
かつて評者はこうしたドイツ型の大学教育が、創設間もない京大法科において高根義人らによって導入が図られた事実を書いたことがある。それとの関連でみてみると、高根義人と福田徳三との間の決定的な相違があることを、今回の菊池氏の論考は明らかにしている。その決定的な相違とは、高根義人が多くの賛同者、支持者を同じ分科大学(現在の学部)内に持っていたのに対して、福田はそれを持っていなかったことである。つまり創設期の京大法科には、高根義人の提案する教育方式を支持し、それをともに実践しようとする同僚が多くいたが、福田の場合にはその勤務校となる東京高等商業学校にも慶応義塾にも、こころざしを共にする同僚を持っていなかった。明治43年、東京帝国大学に勤めていたドイツ人教授、ハインリヒ・ヴェンティッヒは「東京帝国大学ニオケル経済学教授法改良意見」を発表し、日本の大学においてもドイツと同様の教育方法(具体的には、ゼミナールの制度、論文作成の指導など)を取り入れるべきだと主張したが、その時、福田は「(明治)36年に我輩就職の時同僚二三とその必要を唱導し我輩はミュンヘン、ライプチヒ等における研究室の真似をして校長に肉迫して一室を割かせ図書館から若干の書物を個人的責任の下に借受けて形計りのものを作った事がある」と回想したことが、菊池論文では紹介されている。
京都での実験は賛同者が多かったがゆえに、一つの本格的な制度として実行に移され、やがては挫折という悲劇に終わったが、幸か不幸か福田は彼の主張を支持する賛同者を勤務校に持っていなかったし、実行に移すだけの制度的基盤を欠いていた。だから福田は孤立した形で、学問の理想のみを論じ、「日本には真正の意味における大学なるものなし」と、大学批判を放つしかなかった。これは決して彼が自分の弟子から「氏の人物の偏屈狭小なるは疑うべからず」(門下生第一号の上田貞次郎の回想)と評されるほどの性格の持ち主だったためではなかったであろう。評者は今回の菊池論文を読み進めるなかで、高根義人とは別の型の悲劇の主人公をみる思いがした。
(武蔵野女子大学
現代社会学部長 現代社会論)