「経済開発と教育改革―――アジア諸国」
タイ東北部はイサーンと呼ばれている。タイのなかではもっとも貧しい地域である。ここの住民の平均所得は、首都バンコクの10分の1にしかならない。住民の多くは、昔ながら稲作中心の農業を営んできた。かねてから、いかにしてこの地域の生活水準を上げるかが、タイにとっては大きな課題とされてきた。そのため、国の内外のさまざまな援助機関、
NGOが拠点を設け、この地域の生活改善ためのプロジェクトを展開している。そのなかの一つを訪れた時のことである。ある国の援助で設けられた農村開発センターの敷地に入っていった時、同行していたP教授が「あれ?」と小声をあげた。センターの一隅では、しきりに建物の解体作業が進められている。何をしているのだろう。いぶかしげに尋ねる
P教授に対して、センターの責任者は、こう説明してくれた。「いや、養鶏場を撤去して、運動靴工場を作っているんですよ」。このセンターのある所は、幹線道路からかなり離れた、どちらかといえば「僻地」に近い所である。あたりは鬱蒼とした木々に囲まれた、まったくの農村地帯である。木々の合間からは、青々とした水田が見渡される。この純農村地帯に運動靴工場とは、どうしてなのだろう?
もともとこの農村開発センターは住民に養鶏・淡水魚養殖の技術を伝えるセンターとして発足した。稲作一本で暮らしてきた住民に、新たな技術を伝え、生産の多様化をはかるとすれば、養鶏と魚の養殖がもっとも身近である。これがこのセンターの出発点であった。事実、広い敷地のなかには、養鶏小屋が立ち並び、敷地の一角には広い養殖池が作られている。こざっぱりした食堂も作られており、センターで作られた鶏肉、魚を加工・販売したり、住民の食生活改善のモデル拠点の役割を演じている。食堂から作り出される残り物は、すべて養殖池の魚のえさにする。こうした一貫した活動を通じて、住民に養鶏と魚養殖の技術を伝え、稲作一本だった経営基盤を多様化させる。これがこのセンターの目的であった。それは都市部から遠く離れた農村部にとっては、所得の多様化をはかる一つの有望なあり方であった。
ところが農村はいつまでも「農村」ではなかった。交通網の整備とともに、首都バンコクはもはや遠い所ではなくなり始めた。多くの若者は、稲作、養鶏、養殖よりも所得の高い仕事を求めて、村を離れ始めた。村の人口は急激に減り始めた。養鶏、養殖によって、収入の多様化をはかる時代は急速に去っていった。
しかし交通網の整備は、その反面では新しい可能性をもたらした。「人々が簡単に都会に出ていけるようになったということは、都会から村に簡単に生産原料を運び込めるようになったということではないか」。交通網の発達していなかった時代の村は、孤立していた。都市部からも孤立していただけでなく、周囲の村からも孤立していた。孤立した村にとっては、養鶏・養殖は、稲作以外の所得をはかる、ほとんど唯一の道であった。それはそう頻繁な原料、加工製品の運搬をともなうわけではない。時たま、村の外から原料が「輸入」され、加工製品がこれまた時たま村外に「輸出」されるだけで済んだ。それよりもなによりも長年稲作を続けてきた農民にとっては、もっとも習得しやすい技術だった。養鶏技術、養殖技術、それらの経営技術。これらは、こうした地理的に孤立した稲作農村にとっては文字通りの「適正技術」であった。
ところが、時代は何が「適正」で、何が「適正」でないかを常に変えてゆく。道路網の整備、トラック輸送の発達、低廉大量空輸システムの登場、国境を越えた資本の流動化。これらは孤立した小さな農村を、巨大な「世界システム」のなかに組み込んでゆく。村はもはや孤立した村ではなくなる。一頃まではその周辺一帯を市場としていた鶏肉、養殖魚が、道路網の整備、トラック輸送の発達とともに、首都バンコクを中心とする市場圏に取り込まれていった。いやそればかりでなく、低廉大量空輸システムの出現をきっかけとして、商品市場はバンコク首都圏を越え、さらにはタイという国境を越え、日本、アジア、アメリカ、ヨーロッパを包んだ巨大な国際市場へと取り込まれて行った。村人の作り出した製品は、ごく近隣の地方市場で売りさばかれるのではなく、いまや巨大な世界的なネットワークを通じて、世界各地を流通するようになる。
しかし「世界市場」の登場は、それだけにとどまらなかった。製品が世界市場のなかを流通するようになることは、同時にそれを作り出す労働力、その担い手である人間をもグローバルな労働力市場のなかに組み入れることでもある。養鶏・養殖が村にとって「適正」だったのは、とりもなおさず、住民が安価な労働力を提供していたからである。この安価な労働力のお陰で、製品の価格を低く抑え、そのことが市場の拡大を可能にしていた。ところが「世界システム」の登場は、彼等・彼女等の作り出した製品ばかりでなく、労働力としての彼等・彼女等自身をグローバルな市場のなかに投げ出す。製品が世界市場のなかで評価され、価格が決定されてゆくように、彼等・彼女等の労働力としての価格もまた、世界市場のなかで測られるようになる。
「世界システム」の怖さは、世界のどこかに彼等・彼女等よりももっと安価な労働力を発見すると、情け容赦なく生産拠点を移し変えてゆくことである。つまり昨日まで活気に充ちていた生産地域が、明日は火の消えた場に変わることである。その上さらに、製品とそれを作り出す労働力の間には、決定的な違いがある。製品は世界市場を駆け巡ることはできるが、それを作り出す労働力は土地に、家族に縛り付けられ、そう身軽に移動することができない。世界のなかのどこかで、彼等彼女等以上に低廉な労働力が発見されると、養鶏も養殖もたちまちにして、彼等彼女等の村から消え去っていった。いまや、村人は新たな収入の路を求めて、模索しなければならなくなった。
「この村をタイ一番の、いや世界一番の運動靴の生産拠点にすることが、我々の目標です」。養鶏小屋の解体作業が進む傍らで、村のリーダーは我々に語った。「昔はいちいち原材料をバクコクから運んでくるのが大変でしたが、今は簡単です。」そういいながら、我々を運動靴の製造技術を訓練する建物に導いてくれた。そこでは中学生から高校生ほどの年齢の若者男女が、運動靴の製造技術を学んでいる。おそらく彼等の両親あるいは兄姉は、ここで養鶏を学び、養殖を学んだのであろう。それと同じ場が今や、若い世代に打ち抜き機械を使って運動靴の型を切り取る作業、ミシンを使って縫いあわせる作業、こうした技術を伝える場に変わっている。それはもはや「農業」開発センターではない。今や農業に代わって製造業が村の中心業種となろうとしているのである。
このように農村開発センターが変身したように、村の学校も変身しはじめた。それまでこの村の小学校は6年までしかなかった。さらに上級の学校に進学するとすれば、はるか離れた町にある中学校に、
2時間、3時間かけて通うか、親戚・知人を頼って、下宿しながら通うしかなかった。多くの家庭、子供にとっては、なかなか選択しにくいことである。そこで村の子供達はほとんど小学校6年を修了と同時に、学校教育から離れていった。そういう彼等に残された道とは、その村に残って両親の手伝いをするか、あるいはバンコクなどの都市部へ出て行くか、どちらかだった。都市部へ出ていっても、12,13歳の子供達につとまる仕事がそう多くあるわけではない。たとえあったとしても、子供には危険な仕事、好ましくない仕事であることの方が多い。しかしそうかといって村に残っても、それほどの仕事があるわけではない。このように学校教育にも吸収されない、そうかといって職業生活にも吸収されない、いうなれば社会のなかに生活の基盤を見つけることができない、マージナルな子供達をどうするか。これは6年制の義務教育をとっているタイ社会にとっては、大きな社会問題だった。せめてもう3年間、彼等に学校教育の機会を与えるにはどうしたらよいのか。ところが1987年頃から、大きな変化がおき始めた。政府はそれまで
6年だった義務教育を9年に延長する方針を打ち出した。ただ正確にいえば、義務教育の延長といっても強制力をもって親や子供達に中学校へ行くことを義務づけたのではない。中学校へ進学したい者がいれば、できる限り、その機会を与える政策を実行し始めた。それまで有償であった中学校を段階的に無償に切り替えた。しかし、この村のように、行きたくとも通える範囲内に中学校がない僻地はどうするのか。この村に限らず、いざ歩いて通うとなると、
2時間、3時間かかるような地域はタイにはいくらでもある。進学希望者には進学の路を開くといっても、周囲に行ける中学校がない地域にはどうしたらよいのか。両親のもとから歩いて通える範囲内に中学校を作るとなると、莫大な予算が必要となる。いくらその当時のタイが経済的好況に恵まれているとはいえ、とうてい政府にはそれだけの予算がない。そこで政府は、各村々にすでにできている小学校の校舎を活用し、その小学校に中学校のコースを付け加える方法を採用することとなった。つまり義務教育の延長といっても、新たに中学校のための敷地を求め、そこに校舎を作り、そのための先生を新たに雇うのではなく、すでにある小学校の敷地・校舎・教室を活用して、そこに中学校のコースを付け加える方式が採られた。このような政策が可能だったのは、ちょうどタイでは長年にわたる家族計画が浸透し、児童数が減少し、小学校では教室のゆとりができ、教員にも余裕ができ始めていたためである。
本来ならば義務教育の延長には、莫大な予算が必要となる。しかしこの方式であれば、かなり予算を節約することができる。また村人からすれば、いままで歩いて通っていた小学校のすぐ隣りに中学校ができるわけだから、今まで通り子供を親元においたまま、中学校に進学させることができる。この政策は多くの人々によって歓迎された。
それまでは中学校に進学するとなると、両親のもとを離れて親戚、知り合いを頼って、遠い都会へ出て、そこから中学校に通うしか方法がなかった。ちなみにその当時のタイでは、小学校15校に1校程度の割合にしか中学校がなかった。小学校に通うのにさえ、長い時間がかかる地域があるのに、その小学校が15校集まったその範囲に、かろうじて中学校が1校あるという状態だった。中学校に進学することがどれほど大変なことだったかは、容易に想像できよう。
ところが今や事情は一変した。小学校と同じ敷地のなかに中学校が作られ、これまで小学生用に使われて教室を改造して、それを中学校に当てるというのである。それまで、その村では中学校に進学する者は10人に1人か2人だったのが、今やほとんどの小学校卒業者が中学校に進学するようになった。それとともに、両親も子供もいままでのように12歳の時点で将来のコースを決めるのではなく、中学校3年間をかけて選択できるようになった。
ここで若干タイ全体の姿を説明しておくならば、他の多くの東アジア諸国のように、初等教育の就学率は、ほぼ100%に達していた。しかし問題は中等教育、それも前期中等教育にあった。東アジアの多くの国では、日本と同じ6−3−3制がとられているが、6年間の小学校教育の後にくる中等教育の最初の3年間、この就学率は依然として低く、その水準を向上させることが課題とされていた。タイはその意味では典型的な国で、1987・8年当時、タイの中学校進学率は38%にしかならなかった。これは後でも触れるように、周囲のアジア諸国と比べても低い方であったし、それ以上にもっと問題だったのは、国内に大きな地域格差を抱えていたという点である。たとえば、バンコクではすでに96%に達していたが、東北部では24%程度というように、都市部と農村部とでは歴然とした較差があった。この地域格差をいかに縮小するかは、中学校への進学率そのものを高めることと並んで、大きな課題であった。
このように進学率に大きな地域格差があった原因は明瞭である。つまり中学校はほとんどが都市部にかたまっていて、農村部にはそれがないためである。ところが、1987年の改革以降、それまで中学校のない地域にも、既存の小学校に併設される形で多くの中学校が設けられていった。その結果、この中学校進学率は急速に上昇しはじめ、1992・3年度には76%までに達した。つまりタイはわずか5年間にその中学校進学率を2倍にまで引き上げることに成功したことになる。この成功の背景はいくつかあるが、こうした僻地への中学校コースの設置・普及が大きく貢献している。
こうした例が物語っているように、初等教育あるいは中等教育の普及率を左右するのは、歩いて通える範囲内に学校があるかどうかという地理的なアクセスである。もちろんこれだけで決まるわけではないとしても、こうした物理的条件が大きな意味をもつ。このことは逆の言い方をすれば、学校教育がどれだけ普及するかという問題は、その国がどれだけ「僻地問題」を解決できたかによって決まるといってよい。どこの国にとっても初等教育、中等教育の普及過程は、いかにして僻地を解消するかの過程だったといってよい。
そのことは日本の歴史にも当てはまる。日本の小学校の就学率が90%を超えるのは1900年前後であるが、その当時、小学校の数は26,000校ほどに達した。それ以来今日にいたるまで日本の小学校数は26,000校ほどでほとんど変化していない。このことはいいかえれば、日本の地理的環境のもとでは、子供達が歩いて通える範囲内に小学校を設けるとすると、26,000校ほどが必要だということを意味している。
他方、その当時の中等学校の数はどれほどあったのか。1900年時点では小学校65校に対して中等学校1校の割合、1910年では小学校26校に1校、1920年では小学校16校に対して1校の割合であった。そして現在で小学校2に対して中学校1校の割合になっている。
それではタイの場合はどうなっているのか。1987年当時では小学校15校に対して中学校は1校。もちろん、タイと日本とでは地形が異なり、地理的環境も異なっているので、厳密な比較はできないが、小学校15校に対して中学校1校という割合は、日本に引き直せば、1920年当時に相当する。1920年といえば大正9年のことだが、その当時中学校に通った人達は、長い距離を通学しなければならなかったことは、さまざまなドキュメントが語っている。
たとえば、戦後首相となった石橋湛山は中学校に進学するため、親元を離れ、知り合いのお寺に預けられた。1895年のことである。その頃彼が生まれ育った山梨県では、中学校といへば甲府市に1校あるだけで、そのほかには県立の師範学校があるだけという状態だった。知人の家にあずかられた湛山少年は10キロの道のりをあるかねばならなかった。12歳、13歳の子供にとって、その道のりはあまりにも遠すぎた。少年湛山はやがて通学途中で買い食いをすることをおぼえ、学校に納めるべき授業料を使い込んでしまった。当然のことながら、やがて学校から納入の督促がとどいた。少年湛山を預かっていた家はどうしたか。一言もいわず、何もいわず、未納となっていた授業料を納めたという。これを見て湛山は大いに恥じたと、その回想録で記している(27頁)。
もう一つ例をあげれば、同じく戦後東大総長となった南原繁。彼が中学校に進学したのは、1883年。汽車もなければバスもなく、自転車をもっているのは金持ちの子供だけ。彼自身は往復20キロの道を、毎日片道2時間10分かけて歩いてかよったと回想している(10巻。16、240頁)。
小学校15校に対して1校の中学校という数字が、具体的にどのような意味をもっているかを、これらの事例は雄弁に物語っている。
我々は目の高さを村に置いてタイでの変化をみてきたのだが、タイ政府にはこれとは異なった光景が見えていた。バンコクを遥か離れた小さな村が「世界システム」に組み込まれていったように、タイ政府もまた「世界システム」に取り込まれていった。タイ政府が取り込まれていった「世界システム」とはなにか。
1993年、世界銀行は「東アジアの奇跡」という報告書を刊行した。この報告書には「ここ数年来、タイでは一定以上の教育を受けた労働力の深刻な不足が、持続的な高度成長に対するマイナス要因として働き始めている」というほとんど警告的ともいうべき一文が含まれていた。世界銀行という権威によって下される診断に対して、タイ政府は無関心でいることはできなかった。タイの農村が「世界システム」に取り込まれていったのと同様、タイ政府もまた「世界システム」に取り込まれ始めていた。
もともと一国の教育水準がどれほどであるかといった話題は、少なくとも1960年代までは、国際社会のなかでは話題にならなかった。話題にしようにも、信頼できるだけのデータが欠けていた。ところが60年代に入り、ユネスコ、経済開発協力機構(OECD)などの国際機構によって、先進諸国の教育水準を示すデータが発表されるようになった。つまり、初等教育の就学率、中等教育の就学率、さらには高等教育の就学率などが、信頼できる資料をもとに、各国間で比較できるようになった。
しかし一旦こういうデータが発表されると、それは単に利用できるデータが増えたという単純なことではすまなくなった。どこの政府も自国の教育を、他国との比較、隣国との比較で議論しなければならなくなった。つまり一国の教育政策は、自国内の状況だけ決められるのではなく、他国との比較の中で、国際的状況のなかで決めなければならなくなった。つまり一国の教育システムはその国だけで孤立したシステムとしてではなく、「世界システム」の一環として組み入れられるようになった。
もう一度「東アジアの奇跡」という報告書に話題を戻そう。この報告書に狙いは、発展途上国ばかりでなく先進諸国をも含めて、多くの国々が経済的停滞に当面しているのに、なぜ東アジアだけが急速な経済成長を遂げたのか、しかも経済成長は多くの場合、貧富の差の拡大、所得の不平等をもたらしがちだが、東アジアの場合には所得の平等化と経済成長の両者を同時に実現できたのはなぜだったのか、その秘密を解明することであった。
この報告書では日本、香港、韓国、シンガポール、台湾、インドネシア、マレーシア、タイの東アジア8カ国を「高いパフォーマンスを示すアジア経済」(
High-performing Asian Economies。以下HPAEsと略称)と定義し、これら8カ国に共通する要因を発見しようとしている。ここではさまざまな指摘がなされているが、なかでも世界銀行が着目したのは、人的資本の蓄積という観点である。これら8カ国はともに長年にわたって国民全体の教育水準の向上に努め、その結果どの国も豊富な人的資本を蓄積することに成功している、これがこの報告書の要点の一つであった。とくになかでも、これらの国々は初等教育の普及に力をそそぎ、そのことが国民全体の知識水準を向上させ、その成果が今や質の高い労働力を育て上げ、それが高い経済成長の原動力となっている点を評価している。この報告書では1960年から85年にかけて東アジア8カ国の経済成長をもたらした要因は何だったのかを分析している。その結果、浮かび上がってきたのは、1960年時点での初等教育の就学率、1960年から85年にかけてどれだけの投資が行われたかを示す平均投資率、1960年当時の中等教育就学率、の3つだったという。しかもこれら3つの要因のなかで、経済成長に対する貢献がもっとも高かったのは、1960年時点での初等教育の就学率であり、二番目に貢献度が高かったのは、1960年から85年にかけて平均投資率であり、第3に貢献度の高かったのが、1960年時点での中等教育の就学率だったと報告している。たとえば1960年から
85年にかけての経済成長のうち、タイの場合であれば、その87%は1960年当時の初等教育の就学率で説明できるし、日本の場合には、その経済成長の58%までが、1960年時点での初等教育の就学率で説明できるという。確かにこれら8カ国では1960年当時から、南アジア、アフリカなどと比較すれば、その初等教育の就学率は高い水準に達していた。その以降現在までの動向をみても、初等教育の就学率は着実に上昇し、現在ではほぼ100%に達している。それだけでなく、いまだに多くの国で就学率は高くても中途退学率が高かったり、小学校の課程を最後まで修了する者の比率が低かったり、さらに男女の間で就学率に大きな格差があり、女子の就学率が極端に低かったり、さまざまな課題をかかえている。ところがこれら8カ国の場合には、いまだに部分的な課題を残すとはいえ、こと初等教育に関しては、ほとんど就学率100%の水準に到達したとみることができる。このことは、たとえば最近のサハラ以南の国々では、年々初等教育の就学率そのものが低下しつつあるのと対照的である。
問題はいかにしてこれら8カ国は、初等教育の普遍化に成功したのか、という点である。こうした問いに対して世界銀行が強調するのは、政府の積極的な役割であり、その教育政策である。国の隅々まで小学校を行き渡らせ、そのすべてに教員を配置し、継続的な教育活動を行うには、もちろん地域住民、一般市民の理解と協力が欠かせないが、それ以上に政府の積極的な関与が不可欠である。それはひとえに初等教育の普及定着には莫大な経費を要し、それを両親、あるいは地域社会だけに負担させていては、到底初等教育の全国普及といった目標は達成できないからである。両親、地域社会が負担しきれないとしたら、政府が公的資金を投入するほかない。
近年、「小さな政府」を求める声が大きい。つまり政府の役割を縮小させ、それに代わって市場のメカニズムにすべてを委ねるという発想である。しかし初等教育のような仕組みは、大都会のような人口密度の高い地域ではそれなりに機能するが、人口密度の薄い地域では機能しようがない。初等教育の最大の課題は、すべての子どもが歩いて通える範囲内に学校を設けることである。子供が2時間、3時間かけなければ学校に通えないところでは、ほとんど小学校教育は定着しない。どうしても家庭から歩いて通える範囲内に学校を設けるとなると、必然的に全国各地に多数の小規模学校を設けなければならない。さらにまた、そのような山間僻地でも赴任しようという教員を養成しなければならない。その教員もたまたまそのような僻地でもいいと希望する教員がいるというだけでは不十分で、常時そういう教員を安定的に供給できる体制を作り出さなければならない。これらのことはどれをとっても莫大な経費を要する事柄である。
問題はそのための経費をだれが負担するかという点である。これを地域住民の負担とした時、富裕層が集まった地域ならばいざ知らず、一般の住民にはとうてい負担しきれるものではない。どうしてもそれは個々の地域社会を超えた広範囲の行政を司る機構、中央政府の介入が必要となる。東アジアの特徴は、中央政府がその役割を認識し、政府の主導のもとに初等教育に多額の国家資金を投入してきた点にある。これが「東アジアの奇跡」の分析結果である。
その証拠は多くある。たとえばどこの国にとっても、政府予算の何パーセントを教育分野に配分するかが大きな争点となるが、それと同時に同じ教育予算のうち、何パーセントを初等教育に振り向けるか、何パーセントを中等教育に振り向けるか、何パーセントを高等教育に振り向けるか、が大きな争点となる。
東アジア8カ国に共通する特徴は、教育予算の7割、8割を初等教育と中等教育に配分してきたという事実である。これはラテン・アメリカ、アフリカなどと比較すると、対照的である。ラテン・アメリカ、アフリカなどでは、教育予算のなかで大きなシェアを占めるのは、むしろ高等教育の分野で、初等教育への配分は東アジアの水準に達しない。このように広く世界全体の傾向のなかでみるならば、東アジアの各国が初等教育重視の政策を展開してきた事実は明白である。
このように「東アジアの奇跡」は政府の果たす役割がいかに重要かを指摘したが、同時にまた東アジア内部に存在する各国間格差をも明らかにした。とくにこの報告書が焦点を当てたのは、中等教育の就学率に見られる格差である。とくにタイが中等教育の普及の面で、他の東アジア諸国から一段と後れをとっている事実を指摘した。その下りをみてみよう。
1960年代から、一国の経済水準と就学率との間には、かなり明確な相関関係があることがよく知られていた。つまり1つの社会の経済水準(たとえば国民一人当たりGDPで代表される)がある水準に達すると、その経済水準に対応した就学率が発見できるというのである。いいかえれば、たとえ国は異なり、また年代が異なっても、同じ経済水準に達した国では、その就学率もまたお互いにごく似た水準になるという経験則である。
世界銀行は「東アジアの奇跡」のなかで、この手法を使って、東アジア8カ国の初等教育と中等教育を対象に分析を展開している。時点としては1965年と1987年の2時点を選び出し、それぞれの時点でどのような特徴がみられるかが、この分析での焦点である。まず初等教育の場合をみると、1965年当時からこれら8カ国は初等教育の就学率が高く、しかもその国の経済水準から予測されるよりも高くなる傾向を示していたという。「香港、韓国、シンガポールではすでに早い時期に、初等教育の普遍化に成功をおさめ、大きな人口をかかえるインドネシアでも1965年には70%以上という高水準に達していた。この東アジアの教育の優秀さは1987年になると、中等教育の分野で明らかとなった。インドネシアの46%という中等教育就学率は、同じ経済水準の国との比較してみても、かなり高く、韓国でも35%から88%へと上昇し、他の国を大きく引き離している」。
このように世界銀行は東アジアでの初等教育の早期普及定着、さらにはその後の中等教育の普及発展を高く評価する一方、タイに関してはかなり厳しい評価を下している。この部分をもう少し詳しく紹介するならば、こうなる。まず1965年時点でアジア諸国の経済水準と中等教育就学率の関係をみると、これまでの経験則通り、中等教育就学率と経済水準との間には極めて高い相関をしめす。しかしこれだけならば、これまで知られていた経験則を確認しただけのことで、あまり意味のあることではない。もっと重要なことは、こうした経験則に照らした時のタイの位置である。1965年のタイの国民一人当たりGDPは約300ドルで、中等教育の就学率は14%ほどであった。その当時のアジアではGDP一人当たりGDPが300ドルほど国では、中等教育就学率が約14%ほどになるのが一般的であったが、タイもまたほぼこの水準に達していた。つまり言い換えれば、14%という中等教育就学率はその当時のタイの経済水準からすれば、ごく標準的な水準だったことになる。
ところが同様な手法で1987年時点のタイを位置づけてみると、次のような事実を発見することができる。1987年にはタイの国民一人当たりGDPは約1,000ドルほどに上昇してきている。ところがこの時点でのタイの中等教育就学率は28%。確かにこの28%という中等教育就学率は、1965年の14%と比較すれば2倍に上昇したことになる。ところが1987年時点で同じような経済水準の国と比較すると、約1,000ドルほどの国ならばふつう36%ほどになるのが一般的であるのに、タイの場合には28%ほどにしかならない。つまりタイの中等教育就学率は、その経済水準から期待されるよりも8.3%も低いことになる。いいかえればその経済水準から期待される水準の8割にも達してないということになる。
つまり1965年から1987年にかけて、タイの中等教育就学率が上昇したのは事実であるが、他の東アジアの国ではもっと早い速度で上昇した。たとえば、インドネシアでは12%から46%へ、マレーシアでは28%から59%へと上昇している。
たとえば、この報告書にはこのような一文を見出すことができる。「1960年当時の日本の中等教育の高い就学率は、物的投資以上に高い貢献を日本の経済成長にもたらした。日本の経済成長の41%までが、この中等教育の高い就学率で説明することができる。これに対して、インドネシア、マレイシア、タイでは中等教育の普及が遅れたために、中等教育という要素からは15%以下という、ごくわずかな経済成長しか引き出すことができなかった」。さらにこの報告書は「ここ数年来、タイでは一定以上の教育を受けた労働力の深刻な不足が、持続的な高度成長に対するマイナス要因として働き始めている」という、ほとんど警告的とでもいうべき一文を書き記している。
こうした世界銀行による分析の結果は、タイ政府のみならずタイ社会に対して大きなインパクトを与えた。タイ政府はすでに1987年から開始していた義務教育延長政策を、さらにスピードを高めて推進することとなった。しかし、義務教育延長化に向けてのインパクトとなったのは、外部からの圧力だけではなかった。国の内部にも義務教育の延長化を望む声がさまざまな形で存在していた。小学校6年を終了した時点で、将来を決めるのは無理。せめてもう3年あったら、もっと賢明な選択ができることだろう。小学校終了とともに職業を選ぶといっても、現に多くの子供や親達がその選択に失敗しているではないか。かねてから、そういう声があった。
さらにまた、外国資本のタイ進出が増加するとともに、英語の知識をもったもの、ビジネスのわかるもの、機械についての技術を持ったもの、そういった人材に対する需要が急速に高まった。それに対して1990年当時、タイの成人人口のうち、ほとんどの者は初等教育だけしか受けておらず、中等教育卒業者、高等教育卒業者を合せても、わずか10%以下という状態にあった。都市部では高度の基礎教育をもった人材の不足が顕在化しつつあった。
しかし、こうした状況はなにも都市部だけに限らなかった。農村部では、農村が農村でなくなる変化がおき始めていた。その実状は、この小論の冒頭で述べた通りである。かつて農村部だった地域に、各種の工場が進出するとともに、求める人材の種類が変わり始めた。外国との交易が増加するにつれて、英語の知識を持った者、ビジネス・技術の知識を持った者に対する需要は、農村部でも増加していった。これらの変化はいずれも基礎教育の整備を求めていた。もっと具体的にいうならば、すでに達成された初等教育の普及を基盤として、その段階である前期中等教育の拡大、これが中心的な政策課題として設定されることとなった。
1987年、タイ政府が発表した義務教育延長政策は近隣諸国から注目を集めた。その波紋はすこしづつアジア諸国に広がっていった。1994年5月、インドネシアのスハルト大統領はそれまで6年間であった義務教育をさらに3年間延長すると宣言した。その当時のインドネシアの中学校への就学率は52%でしかなかった。これを可能な限り早い時期に100%の水準にもってゆこうというのである。広大な領土をもち、多様な文化をもつインドネシア(経度の幅はほとんどアメリカに匹敵する)は、その内部に大きな地域差を抱えている。中学校の就学率を27の州単位で比較すると、一方では84%に達しているジョクジャカルタ州がある反面、東ヌサトゥンガラ州、東ティモール州では40%にしかならない。タイの場合と同様、その地域格差は大きい。
しかもインドネシアの場合には、タイとは異なった条件を持っている。それは中学生に当たる年齢人口の動向である。タイの場合には、中学生数は減少期にあり、中等教育の普遍化に要する経費もそれだけ節約できたが、インドネシアの場合には当分の間、それが増加傾向にあり、それだけ経費がかかる。インドネシアが期待したのは、日本からの資金援助であった。日本政府はインドネシア政府からの要請を受けて、中等教育拡大のための資金援助を開始した。
世界全体で眺めた場合、1980年代は教育分野での格差が顕著となった時期である。なかでも東アジアとアフリカでは、まったく対照的な事態が現れた。東アジア地域では順調に初等教育の普及が進み、今やその次に来る前期中等教育の拡大期に到達した。それに対してアフリカでは初等教育の停滞どころではなく、初等教育の就学率そのものが低下するという歴史上希な事態に見舞われた。
1950年以降、初等教育の整備は先進国・発展途上国を超えた、人類共通の課題として、多くの国々の最優先課題とされてきた。各国政府はもとより、国連機構を初めとする国際機関は、この国際社会共通の課題を達成するため、さまざまな努力を展開してきた。しかしながら、この1980年代アフリカにおける初等教育就学率の低下という現実は、深刻な衝撃を与えた。
80年代のアフリカを襲ったのは、IMFを中心とする構造調整政策の嵐である。IMFはアフリカ諸国の赤字財政を克服するため、財政支出の削減を求めた。アフリカ諸国はその勧告を受けて、多くの国家事業を削減縮小した。その時、もっとも大きな影響を受けたのは教育部門、それも初等教育部門であった。予算削減を受けて、多くの初等教員の削減が行なわれた。その結果、80年代のアフリカは、初等教育就学率の低下という、深刻な事態に見舞われた。80年代以降、あい続く景気後退のなかで、多くの国が就学率の伸び悩みを記録したが、それが低下したのは、アフリカ地域だけである。
もともと初等教育を維持運営するためには、莫大な経費が必要となる。どこの国においても初等教員は公務員のなかで最大のセクターであり、その人件費は国家予算のなかで大きな部分を占めている。わずかな待遇改善といえども、膨大な経費増となって跳ね返ってくるし、国家財政を縮小する場合には、削減効果が大きいだけに、もっとも犠牲になりやすい。構造調整政策下のアフリカは、その実例を身をもって示したといえる。
この事実は、初等教育の経費を誰が負担すべきかという課題を、改めて投じることとなった。1980年代末以降の計画経済の破綻は、国営事業一般に対する不信を人々に刻み込んだ。こうした時代潮流の変化のなかで、近代国家の成立以降、国家事業として推進されてきた基礎教育に対しても、今や人々の不信感が向けられることとなった。これまで多くの人々は、国家によって設置され、国家的基準によって運営され、国費によってまかなわれる基礎教育こそ、国民としての最低限の教育を、広く均等に提供する機構として、多くの信頼を寄せてきた。東アジア諸国が激動の時代を生き抜き、着実な発展を遂げてきたのも、こうした仕組みから安定的に供給される人材蓄積を持っていたからだというのが、「東アジアの奇跡」の指摘であった。しかしながら、近代国家という枠組みが改めて反省の対象に据えられるとともに、国営事業としての基礎教育もまた吟味の対象に据えられる状況が登場しはじめた。
はたして国営事業に代わる形態として、いかなる形態があり得るのか、その具体的な姿はまだ見えていない。しかし現代はすべての国が、そしてすべての組織・機構が「世界システム」のなかでテストされ吟味される体制ができあがっている以上、この問題もまたそれぞれの国が、閉じた系として孤立して解くことはできないであろう。