国際協力の現代的課題

武蔵野女子大学現代社会学部現代社会学科編「テキスト 現代社会の論点」所収(2002年3月発行)

潮木守一

(はじめに)

 私の子供の頃、日本がまだ貧しいかった。町に出かけると、必ず物乞いをする人の姿を目にした。なかには私と同い歳ぐらいの子供を連れて、物乞いをする人もいた。そいう姿をみると、幼な心にも心が痛んだ。親に「お金をあげたら」といったが、私の両親はけっしてお金をやろうとはしなかった。「ああいう人達でもちゃんと働けば、いくらでもお金を稼げる。そういう人達にお金をやったら、怠けていても他人からお金を貰えることを知って、ますます働かなくなる。だからやってはいけない」これが私の両親の考え方であった。それ以来今日に至るまで、他人にものをやったり、他人から貰ったりすることには、依然として心理的な抵抗感がある。

 第二次世界大戦後、日本は敗北の末、極度の貧困状態に陥った。1946年冬には大量の餓死者がでるという噂が流れた。しかもそれは決して根拠のない噂ではなかった。その当時、日本の食糧は底をついていた。全国各地で食糧デモが多発していた。その時日本を救ったのが、ついこの前まで敵国であったアメリカで、アメリカは緊急食糧支援を日本に送りこみ、この食糧危機を救った。その当時の私は育ち盛りの少年で、いつでも空腹感を抱えていた。恐らく私の体内のどこかには、この時のアメリカからの緊急食糧が残っているのであろう。

 やがて日本は貧困状態を脱し、次第に経済成長期を迎えた。経済成長が始まったといっても60年代初めの日本は、まだ貧困国であった。その証拠に、新幹線を建設する資金がなく、世界銀行からの融資を受けた。世界銀行とは「発展途上国」を対象に、融資を行う国際機関である。その当時の日本は世界銀行から「発展途上国」と「立派に」認定された低所得国だった。日本はこの世界銀行の融資をもとに、日本経済の大動脈を建設し、そのお陰で経済成長の波に乗ることに成功した。これは単に日本の発展に貢献したばかりでなく、日本を取り巻くアジアの国々、さらにはアジアの範囲を超えて、世界各地域の国々の発展に直接的間接的効果を持った。もし世界銀行という国際機関がなかったら、日本の新幹線の建設は実現しないか、あるいは大幅に遅れ、その後の日本経済の発展はそれほどスムーヅには進まなかったことであろう。日本経済は、世界銀行という国家間の相互支援体制の恩恵をこうむったのである。

(人類的課題としての相互支援)

 こうした話しが物語るように、人類社会には相互の支え合いが欠かせない。よくいわれるように、「人」という文字は、2本の棒がお互いに支え合って立っている姿を示している。人は、もともと一人一人では生きてゆけない。お互いの支え合いがあって、そこではじめて生きて行ける。支え合いは人間社会が成り立つための基本的な原理である。

 しかしそれと同時に、人間社会にはもう一つ別の面があることを忘れることはできない。それは、本来お互いの支え合いから始まったものが、いつの間にか「もたれ合い」に変ることがよくあるということである。もう一度「人」という文字を見てもらいたい。二人の人間が一所懸命足を踏ん張って互いを支え合っているようにも見えるし、お互いに力を抜いて他人に寄りかかっているようにも見える。他人に寄りかかっていると、楽である。だから人はとかく他人に頼り、自分の足で立つことを怠る。しかし、本来互いに支え合っていた人々が、双方とも力を抜いて相手に凭れかかったら、とも倒れになってしまう。しかも肝心なことは、この「支え合い」と「もたれ合い」とが常に紙一重だというまぎれもない事実である。「支え合い」として始まったものが、いつの間には「もたれ合い」に変っていることがよくある。1980年代の末、旧ソ連をはじめとする社会主義諸国が相次いで崩壊していったが、その原因は、国民の多くが政府から課せられたノルマだけ果たせばよい、自分一人がサボっても大丈夫と思いこんだ結果である。

 このように、個人の間で支え合いが必要であるように、国家間でも支え合いが欠かせない。現在、我々の住む地球上では、大きな貧富の格差がある。一方に国民一人当たり国民総生産が2万ドルを超える国がある反面、国民の多くが1日当たり1ドル以下の所得しかない国もある。地球上でもっとも富んでいる20%の人々は、地球上で生産される成果の86%を手に入れているが、その反面、もっとも貧しい20%の人々が手に入れるものは、全体のわずか1%に過ぎない。現在、この地球上には、文字の読み書きができない成人が8億5000万人いる。それだけでなく、目下2億6000万人もの子供が学校に通っていない。これらの子供達は、10数年後には世界の非識字者のなかに加わっていく。だから世界の非識字人口はなかなか減少の兆しをみせていない。また栄養状態をみるならば、8億4000万人が栄養失調状態にあり、なかでも1億6000万人の子供は栄養失調状態にある。地球上のいかなる地域に住んでいるとしても、最低限は必要とされている費用、つまり一日1ドル以下で生活をしている人々は13億人、10億人が基本的な生活上の必要物をまかなうことができない。さらに60歳まで生存できない人々は15億人に達し、3億4000万人の女性は40歳まで生存することができない。児童労働に従事している子供の数は、2億5000万人以上にもなる。8億8000万人以上が保健医療サービスを利用できず、26億人が基本的な衛生施設を利用できない。ちなみに全世界の人口は現在、約55億人である。

 日本は極東の離れ小島にあり、この島に住んでいる限り、飢えに苦しむ人々、貧困に苦しむ人々の姿をみる機会はほとんどない。むしろ我々の周りにあるのは、溢れるばかりの富であり、まばゆいばかりの繁栄である。一旦、この島国を離れると、そこには飢え、貧困、非識字、病い、児童労働などの労苦を背負っている人々が多くいるという事実は、なかなか伝わりにくい。これらは海を隔てた遥かかなたの国々の問題で、我々には関係のない問題なのだろうか。この問題を考えるには、日本という国がこれまでどれほど多く他国の支援を受けながら、戦争の荒廃から復興を遂げたのか、その歴史を振り返ってみなければならない。かつて、日本は海外からの支援を受けて自立への途をたどることができた。今やその日本が資金の足りない発展途上国々のために、国際貢献、援助、協力を展開しなければならない段階に達した。人々に支え合いが必要なように、国と国もまた互いに支え合いながら生きて行かねばならない。ここに「自立を支援するための国際協力」という課題が登場する。

(国際協力の仕組み)

 現在、多くの先進国は互いに協調して、発展途上国が外部からの支援なしでも自立して持続的な発展の途をたどれるように、さまざまな形で資金を提供している。そのための資金が政府開発援助(Official Development Assistance。略してODAと呼ぶ)である。先進諸国で構成された国際機関として、経済協力開発機構(OECD)という機関がある。その下部機構として、援助提供国(発展途上国に援助資金を提供する国)間の意見調整を行う機関として開発援助委員会(DAC)が設けられている。1999年にこれらDAC加盟国が開発途上国支援にために投じた資金は、総額564億ドルに達する。そのなかで、日本のODAの占める割合は全体の27%と2位のアメリカの16%を遥かに超え、世界最大の規模に達している。これを金額にすると年間総額152億ドル、日本円で1兆8千億円に達し、これだけ多額の資金を世界の発展途上国支援のために負担している。これは別の表現を使うと、国民一人当たり約1万円強を他国の支援のために使っていることになる。

 それではこれほど多額の資金は、具体的にどのように使われ、どのような役割を果たしているのであろうか。政府開発援助は大きく分けると、(1)二国間援助、と(2)国際機関に対する出資・拠出、の2つに分けられる。「二国間援助」とは、文字通り、どこかの特定国に向けられた援助で、1999年の場合であれば、日本はインドネシアに対して16億ドル、中国に12億ドル、タイに対して9億ドル、ベトナムに対して7億ドルの支援を実施している。これに対して、「国際機関に対する出資・拠出」とは、国連児童基金(UNICEF,ユニセフ)、国連開発計画(UNDP)などの国連機関や、世界銀行、アジア開発銀行などの国際開発金融機関への資金の出資・拠出のことである。こうした国際機関に出資・拠出した資金は、「二国間援助」とは異なって、どこか特定国のためにだけ使われるのではなく、これら国際機関が世界各地で展開しているさまざまな活動に使われている。そこで「二国間援助」のことをバイリテラル援助(bilateral assistance)といい、「国際機関に対する出資・拠出」の方をマルチリテラル援助(multi-lateral assistance)と呼んでいる。ちなみに1999年統計によると、日本のODA総額のうち68%が「二国間援助」、32%が「国際機関に対する出資・拠出」に向けられている。

 さらにこの「二国間援助」には、援助の形として「技術協力」と「無償資金協力」と「有償資金協力」との3つのタイプがある。まず「技術協力」とはどういうことなのかを、現在日本が実施しているベトナムの初等教育整備計画の事例をとって説明することにしよう。ベトナムの初等教育の就学率は現在95%である。これを2010年までに99%までに引き上げることが国家目標として設定されている。この目標を達成するためには、まずベトナム全土のどこに、まだ小学校に通っていない子供が、どれだけいるのか調べ上げなければならない。数を数え上げるだけでなく、なぜ学校に行っていないのか、その理由を調べることが必要である。そしてこれらの子供が小学校に通えるようにするには、どういう対策をとる必要があるのか、計画を練り上げなければならない。そのためには小学校を何校増設する必要があるのか、教員を何人増員する必要があるのか、そのためにはどれだけの資金が必要となるのか、これらを具体的なデータをもとに計算して行かなければならない。このためには、ベトナム側と協議を重ねながら、目標を定め、今後10年間の計画を作り上げなければならない。つまり、学校を作り、教員を養成する前に、教育計画そのものを策定するノウ・ハウ、それも現在のベトナムが求めるノウ・ハウを、日本、ベトナムで協力しながら作っていかねばならない。「技術協力」とは、こうした形で行われる技術や知識の移転・形成のことであり、こうした知識や技術を備えた人材を育成することである。

(無償資金協力と有償資金協力)

 それでは「無償資金協力」とは、どのような協力なのであろうか。これは相手国に対して返済を求めず、資金を贈与する方式である(Grant という)。つまり簡単にいえば、相手国に資金を貸すのではなく、ただでやってしまう方式である。これに対して「有償資金協力」はあくまでも相手国に資金を貸し付ける方式で(利子は低く、返済期間は長い)、相手国はいずれ何ヵ年かかけて返済してゆかなければならない(Loanという)。

 この「無償資金協力」と「有償資金協力」とでは、その背後にある考え方に違いがある。資金がなく困っている国に無条件で資金を贈与することは、場合によっては効果を発揮することがあるが、その反面、他人からただでお金を貰うことは、その国の自尊心を傷つけ、その自立性を危うくしないとも限らない。この文章の冒頭でも述べたように、人間は助け合いを必要とするが、同時に自立性をも必要とする。資金の欠けた国に、資金を贈与すべきか、貸与すべきかは、ケース、ケースで異なってくる。一般的には医療、保健、教育、福祉のような基礎生活分野を対象とする支援では、無償資金協力の方式をとることが多い。これらの分野は、そこに資金を投入したからといって、直ちに目に見える経済的利益、効果が引き出せるわけではないからである。それに対して、運輸、電力、通信のような大規模な経済インフラ整備の場合には、有償資金協力(円借款ともいう)を用い、いずれ返済されることを前提として資金を貸し付けるケースが多い。しかし、最近では教育施設の整備や上下水道設備や、環境分野の整備にも、有償資金協力が用いられている。ちなみに1999年度実績では日本のODAのうち、6,300億円が贈与部分で、5,600億円が貸し付け部分となっている。

 ODAのうち、どれほどが贈与(Grant)で、どれほどが借款(Loan)であるかは、国によって大きな相違がある。たとえば1998・99年度の統計によると、DACを構成する22カ国のうち、17カ国ではODAの95%以上を贈与にまわしている。100%が贈与だという国は7ヶ国に及んでいる。これに対して日本の贈与部分は45%と、DAC構成国のなかではもっとも贈与部分が低く、その分だけ借款部分が多い。こうした日本のODAのあり方については、これまでもさまざまな国際的議論があった。日本のODAの基本方針は、援助受入国の自助努力、自立発展にある。他国からただで資金援助を受けることは、場合によっては無責任になり、短絡的な依存傾向を強める結果になりかねない。そこで日本は資金不足の国に資金を贈与してしまうのではなく、あくまでも一旦貸し、いずれその返済を求めるという立場をとっている。貰うのではなく、借りるのだということになれば、その資金をもとにどういう事業を実施すれば、もっとも効果的なのか、それを考えざるをえない。これが長期的には相手国の自助努力、自立発展に効果を発揮するというのが、日本のODA政策の基本となっている。

 ただ近年、この発展途上国に対する借款のあり方をめぐって、困難な問題が浮上してきている。それは「重債務貧困国」(Heavily Indebted Poor Countries, HIPCsと略称)問題といわれる問題である。低開発国は経済社会発展のため資金が必要となる。そこで資金を豊富に持った国や国際金融機関から資金を借りて、経済社会発展のための計画を立て、さまざまな事業を実施する。ところが、それらの計画が予定とおり進まない時は、期待された経済成長はおきず、借金だけが後に残される。こうした悪循環をたどって、最近では多額の借金が累積された国々が次々と発生した。これらの国々に対して「借金は返すべきもの」という原則を振りかざして、債務返還を求めて行くと、益々貧困状態に追いやってしまう。そこで1996年、世界銀行と国際通貨基金は、この累積債務の規模がある水準以上となった国を「重債務貧困国」として認定し(2000年9月現在、41カ国。その多くがサハラ以南の国である)、1999年のケルン・サミットでその救済措置をとることとなった。

 現在、日本は借金を棒引きする方式はとらず、借金の返済時期になると、無償方式で債務救済を行っている。つまり、返済分を無償で贈与している。日本が借金棒引き方式をとらないのは、相手国の自助努力を損なったり、真面目に返済している他の国々に悪い影響を与えることを避けるためである。すでに述べたように、自主自立は人類社会にとっては守るべき重要な価値であり、国際支援はこうした自助努力を引き出すことに最終目標がある。借金棒引き策が相手国の自助努力を損なうことになっては、長期的にみて望ましいことではない。また、一方にさまざまな努力を払って、債務返済をおこなっている国があるのに、他方では返済しないでも済むという実績を作ると、これまで真面目に返済に向けて取り組んできた国は、返済にむけて努力する意欲をなくしてしまう。こうした「モラルハザード」を起こすことは極力避けなければならない問題である。

(21世紀に向けての新開発戦略とNGOの役割)

 貧困にせよ、病気にせよ、環境にせよ、これらは人類が共同して解決すべき課題である。1996年、経済協力開発機構(OECD)の開発援助委員会(DAC)は「新開発戦略」を発表し、今後世界各国が重点的に解決すべき課題として、次ぎのような目標を提示した。

(1)2015年までに極端な貧困の下で生活している人々の割合を半分に削減する。

(2)2015年までにすべての国において初等教育を普及させる。

(3)2005年までに初等・中等教育における男女格差を解消する。

(4)2015年までに乳児と5歳未満の幼児の死亡率を3分の1に削減し、妊産婦の死亡率を4分の1に削減する。

などである。

 日本政府は政府開発援助(ODA)を使って、これらの目標達成に向けて、さまざまな活動を行っているが、民間団体(Non-Governmental Organization. NGOと略す)もまた、これらの分野でさまざまな活動を展開している。日本政府も近年では、これらNGOがこれまでに蓄積してきている経験・ノウハウを活用するために、これら民間団体との連携を強めている。武蔵野女子大学もまた小規模ではあるが、日本フィリピンボランティア協会と連携しながら、フィリピンの植林活動、医療活動を支援する活動に参加している。毎年、学園祭の機会を使って、フィリピンの農村部の実状を知ってもらうため、資料展示を行い、来訪者から資金の提供を受けて、それをもとに農村部の小学校に薬を送り届けている。これは国境を越えた連帯とか、国際協力ということを、身近に体験し、等身大のものとして活動しながら理解することを目標としている。またたとえ小規模とはいえNGOといった組織を立ち上げ、維持運営することがいかに困難であるか、それを具体的に体験するてめである。我々が学ぶのは、文字を通してだけではない。自ら体験するなかで、多くのことを学び取る。一人一人の身体の中に刻み込まれた体験ほど、長続きする貴重な教科書はない。〔以上〕  

 (キーワード)

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