「国立大学の独立行政法人化問題をどう考えるか」

武蔵野女子大学 潮木守一

 このテーマで論じる場合には、まず論じる者の経歴・身分を明らかにしておくことが礼儀であろう。国立大学での勤務が41年間。それに引き換え、私立大学での経験は、わずか1年半。到底両者を公平に比較する立場にはないが、それでも両者の違いを、いやでも痛感しなければならない立場に今置かれている。社会主義体制の崩壊、西欧型高度福祉社会の行き詰まり。20世紀末を襲った、この政治的大変動は、ともに国営企業、国営事業がいかに非効率であるかを、多くの人々の胸に刻み付けた。それとともに国立大学に対しても、それが国営事業であるがゆえ、疑惑の目、懐疑の目が向けられることとなった。しかし、まず最初に指摘しておくべきことは、芸術、文化の場合と同様、学問分野のなかには、国家こそが育成保護しなければならない分野がある。そういう分野こそ国家が資金を投じて、保護育成に勉めるべきであろう。なにもそれは国立大学である必要はない。私立大学であろうと、公立大学であろうと、国家的見地からみて保護育成が必要ならば、惜しみなく国家資金を投ずべきであろう。

しかしそうだからといって、すべての国立大学、すべての学部、学科、すべての講座を無条件に国家保護の対象とすべきだということにはならない。社会主義の崩壊以降、市場原理を礼賛する声がにわかに高まってきた。たしかに市場メカニズムは、弾力性に富み、環境変化への対応も素早く、適切な資源配分を保障しているようにみえる。しかし、今の私立大学を取り巻く状況が雄弁に物語っているように、市場には「天使の声」もあれば、「悪魔のささやき」もある。もともと市場(いちば)とは喧騒のちまたであり、正邪善悪真贋すべてが乱れ飛ぶ場である。だから一旦、市場に登場するからには正邪善悪真贋を見分けるだけの見識を備えていなければならない。市場原理が優れているのは、なにもそこで正義が実現されるからではまったくなく、ひとえに「天使の声」と「悪魔の声」、正邪善悪真贋を見分ける能力を不断に鍛えてくれるからである。

社会主義国家が崩壊したのは、「民の声」を聞き分ける能力を失ったからである。国営企業が機能麻痺に陥ったのは、「市場の声」を聞き分ける能力を失ったからである。国営大学としての国立大学が今や陥っているのは、長年にわたる国家保護にもとで、市場が何を求めているのか、社会が何を期待しているのか、世界が何を望んでいるのか、それを聞き分ける能力を失っている点である。

こうした論に対しては直ちに、世界の学問の動きに常に敏感に反応し、進んで最先端部分を切り開いてきたのは、ほかならぬ国立大学ではないかという反論が出されることであろう。それは紛れない事実である。しかし、それとても国立大学だったからと理由づけるのは、多くの留保が必要である。むしろ、明治時代からの伝統的な重点政策の結果、長年にわたって蓄積されてきた施設・設備の結果とみる方が妥当であろう。そのことは逆にいえば、このことをもって、現在の国立大学を丸抱えのまま、国民の収める税金でまかなうことを正当化する根拠にはならないということである。

現代の特徴は、一言にして「連続する地殻変動」である。「知」の世界は、新たなパラダイム転換を求め、新たなタイプの知の作り方、新たなタイプの知の学び方、新たなタイプの知の伝え方、新たなタイプの知の表現方法を求めている。大学がまがりなりにも「知の府」であろうとするならば、こうした市場(いちば)に溢れている新しい時代の流れに我が身をさらし、時代の求めるものに耳を傾けるべきであろう。国家保護という外套にくるまっている限り、市場の声が聞こえてこない。国立大学にとっては、長年、その窮屈さをかこってきた外套を、自らの手で脱ぎ捨てる絶好の時期が到来したのである。