「キャリア開発セミナー」の構想
松本良夫編「ドキュメント「キャリア開発セミナー」
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・・第1期・3年間半の実践」所収
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2005年3月刊
潮木守一
(現代社会学部の構想)
「キャリア開発セミナー」の構想を語るには、現代社会学部という学部が、いかなるアイディアのもとに構想されたのか、いかなる時代背景を受けて発足したのか、それを説明する必要がある。学校法人武蔵野女子学院の内部で、現代社会学部構想が浮上したのは、1996年のことである。その当時の武蔵野女子大学は文学部と短大からなる、典型的な女子大であった。しかも文学部の入学定員400名、それに対して、短大の入学定員1000名と、きわめて短大の比重の重い大学であった。
ところが1992年度をピークとして18歳人口は減少期に入り、大学受験者数は減少傾向をたどり始めた。その影響がまず現れたのは、4年制大学よりも短期大学で、短大受験生数はそれを境に、急速な減少期に入った。短大の受験生が減り始めた理由は、一般企業の採用の重点が、短大卒業生よりも4大卒女子にシフトしたからではない。むしろ女子ばかりが集まる短期大学に、女子自身が魅力を感じなくなったためである。
1000名という大きな短大定員を抱えていた武蔵野女子大学にとって、この短大受験生の激減は、大きな衝撃であった。一頃まで短期大学は、4年制大学よりも、利益の多い「おいしい」商売であった。また、女子の受験生からみれば、4年制大学よりも小回りの利く大学として、人気が高かった。多くの女子高校生は、4年制大学は就職に不利、就職するなら短期大学と見ていた。
ところがいつごろからか、この4年制大学と短期大学との地位が逆転した。受験生は雪崩をうって、短期大学を見捨てて、4年制大学に向かい始めた。このことは武蔵野女子大学でも歴然としており、短期大学受験生数は年を追うごとに減少していった。1000名という大口の入学定員を抱えた短期大学を、そのまま維持してゆくことはできなくなった。何らかの手を施す必要が生じた。
こうした経緯のなかから浮上したのが、「現代社会学部」構想であった。短期大学の定員を削って新しい4年制学部を作る。この手法は武蔵野女子大学ばかりでなく、その当時多くの短期大学が採用した転換手法であった。
当時まだ名古屋にいた筆者のもとに、現代社会学部を新設したいという話が来たのは、1996年頃のことだった。学部創設準備委員会の一員として、この学部の構想を練るなかで、筆者なりにいくつかのアイディアを学部構想のなかに盛り込んだ。学部発足後、さまざまな機会に新学部の構想を説明しなければならない場面があったが、いつも次の点を強調した。現代社会学部の目標は、「企業社会のなかで、一人前の企業人、社会人、市民として、自立して行動できる女性を育成する」ことである。またさらに具体的な目標として、次の4点を強調した。
(1) 現代社会そのものを教材として取り上げ、現代の社会がどう動いているのかを学ぶ。もし克服すべき課題があるとすると、いかなる選択肢が我々に与えられているのか、それを理解する。
(2) 自分に耳で聞き取り、自分の口で語り、自分の思っていることを的確に表現できる英語力を身に付ける。上手い下手は一切問わない。まずは自ら英語で語る積極性を身につける。
(3) 現代の新しいリテラシーであるコンピュータ・スキルを身につける。それを使うと、どのような新しいタイプの活動ができるようになるのか、それを体験する。大きなことではなく、身近にできることからはじめる。
(4) 教室で学んだことを、ただ頭のなかに仕舞って置くのではなく、実際にそれを使って、ごくささやかなことでよいから行動に移してみる。つまり学びながら行動し、行動しながら学ぶ。たとえば、パソコンのスキルを習得したら、それをシルバーパソコン体験教室で生かしてみる。少しでも英語を習得したら、それを使って英語ボランティアをしてみる。
学生諸君にこうした活動の場を提供するために、フィリピンでの植林活動、アメリカ体験ツアー、シルバーパソコン教室、英語ボランティアへの参加など、いくつかの企画を実施した。夏休みに実施したフィリピンでの植林ツアーでは、昼間は植林活動とスタディー・ツア、夜はその日の体験や印象を英語で報告するというプロジェクトを組んだ。相手は今まで一度も自分の思ったことを、英語で語った体験のない大学一年生である。学生達はこの夜のミーティングを「魔のミーティング」と名づけた。しかし最後の日には現地のフィリピン人の前で、1週間の体験を英語で報告しなければならない。多くのフィリピン人が聞きにくる。みっともないプレゼンテイションはできない。教師の方も懸命に、発表原稿に添削の手を加えた。だんだん夜もふけて、時間が無くなってくると、ほとんど怒声に近い声が飛び交った。多くの学生がこの時になってはじめて、このスタディー・ツアーに参加したことを後悔したことであろう。しかし生きた英語は、こうした切羽詰った状況の中でなければ身につかない。午前3時までかけてリハーサルを続けるグループもあった。しかし、その効果は確実にあった。最終日の体験報告会では、学生達は胸を張って、見違えるほど堂々と、英語での報告をおこなった。
帰国するとさっそく、地元のNGOと連絡をとり、学生を通訳ボランティアとして活用してもらう交渉を始めた。地元には、役所、学校、病院などとの交渉で困っている外国人が多く住んでいる。その外国人を支援する市民による通訳ボランティアが活動を続けていた。在住外国人を支援するといっても、NGOなので、専門の通訳を雇うだけの資金はない。民間人で、ある程度の英語のできる人の支援を求めるしかない。しかし、いくらボランティアといっても、無責任な通訳では困る。TOEICなり、TOEFLEをある得点以上とっていることが、ボランティア通訳になる基礎条件である。教室のなかで、その条件を告げたところ、教室中からは悲鳴があがった。
先にも述べたように、現代社会学部にとっては、話せ聞き取る英語教育が、一つの柱であった。しかしこの目標達成は、容易なことではなかった。英語など話せなくても、聞き取れなくても、大学ぐらいいくらでも卒業できるではないか。日常生活で困ることなど、一つもないではないか。大学経営陣は卒業するまでに、学生全員にTOEFLE○○点以上とらせなかったら、英語教員全員を入れ替えると宣言していたが、教室内の雰囲気は盛り上がらない。われわれ教師は「英語が話せるようになると、どれだけ自分の活動範囲が広がるか」、その経験を語ったが、それでも学生は乗ってこなかった。
そんな学生に火をつけるとしたら、通訳ボランティアは格好の「仕掛け」であった。「通訳ボランティアを探しているNGOがある。条件はこれこれ」という説明は、教室一杯の悲鳴でかき消されたが、それでも授業が終わってから、何人かの学生がやってきた。「絶対にそれだけの得点を取るから、そのNGOを紹介してください」。今の大学生には学ぶ目標がない。教師には教える目標がない。だがしかし、こうした「教室砂漠」のなかに、かすかに火がともることがある。
またパソコン・スキルも教室のなかで、その操作方法を学ぶだけでは、なぜこんな単位をとらなければならないのか、その意義が分からない。そこで「シルバーパソコン体験教室」を立ち上げ、学生にボランティアとして参加してもらい、シルバー受講者の手足をとってパソコン指導をする機会を作り出した。シルバー受講者は、学生ボランティアの指導に感謝してくれた。あるシルバー受講者の声。「我が家ではパソコンのことがわかるのは、娘だけ。ところが教える態度が悪い。他人に寝そべったままで教えようとしたり、ちょっとこちらが失敗をすると、すぐ親のことを馬鹿にする。今日はこれから家に帰って、この大学の学生さんがどんなに丁寧に教えてくれたか、お説教をするつもりだ」。他方、学生ボランティアの声。「他人に教えてみてはじめて、どこを自分がよく理解していないのか、よくわかった。大変貴重な経験でした」。
海外植林ボランティア活動では、学生にデジタル・ビデオ・カメラを持たせ、活動の様子を画面に納め、帰国すると、それをパソコンにとりいれ、20分程度の長さに編集するという課題を課した。それと同様、シルバーパソコン体験教室の様子をカメラに収め、その写真をもとにホームページを作成させた。
ちょうどその頃、デジタル・ビデオ・カメラが小型化、軽量化し、素人でも簡単に扱えるようになった。教室での授業では、ビデオ・ジャーナリストという、新しいジャーナリズムが登場しつつあることを紹介し、それらビデオ・ジャーナリストの作った優れた作品を紹介した。現代社会のさまざまな課題にビデオ・カメラで迫り、世間にアピールするその手法は、まさに現代社会学部がまず試すべき手法であった。いつかは、卒業生のなかからビデオ・ジャーナリストが誕生することを期待した。しかし、これらは現代社会学部のカリキュラムには登場してこない、いわば「隠し味」であり、目に見えない「仕掛け」であった。いつかその「仕掛け」に乗る学生がでてくるだろう。それを待つしかない。「行動しながら学ぶ」。こうした目標も、学生をこうした「仕掛け」にひっかからせることで、具体化できるだろう。
(現代社会学部の狙いをいかにして世間に伝えるか)
しかしこうした我々の意図は、なかなか世間には伝わらなかった。さまざまな機会に、我々の学部の「理想」を語ったが、世間の反応は冷たかった。そのことは、高校側と接触してみると、すぐ分かった。高校との接触は、大きく行って二つのルートがあった。まず第一に、我々新学部の教員は新学部発足と同時に、新学部の構想説明のために、高校訪問に出かけた。しかし、高校訪問の結果は、どれも同じだった。学部の理想・構想がいくら高邁であろうと、高校側からみれば、それは「空念仏」にすぎない。学部長、教員がいくら新学部の「理想」を説いたところで、世間は耳を傾けない。要するに「理屈はどうでもいいから、最初の卒業生がどういうところに就職できたか、それを見たうえで、生徒に勧めるかどうするかを決める」というものであった。
これは進路指導のあり方として、きわめて当然なあり方で、これだけ「新構想」大学・学部・学科が乱立する時代には、どれが本物で、どれが偽物かを見分けるには、これしか方法がない。武蔵野女子大学現代社会学部が発足した1998年度だけをとってみても、全国で17の大学が新設され(そのほとんどが短大の改組転換)、25もの学部が新設され、26の学部で新学科が新設されている。武蔵野女子大学現代社会学部の新設は、そのなかの一齣に過ぎない。「新構想大学・学部・学科」といっても、これほど数多く乱立するようになると、「新構想」というレッテルだけでは、世間は見向きもしない。新構想学部の「賞味期限」は、極度に短くなる。
そこで、発足2年目からは、教員による高校訪問だけでなく、新2年生による出身高校での学習成果報告活動を始めた。つまり、教員がいくら力こぶしを振り上げて、「新構想学部」の特色を語っても、それは所詮「自己宣伝」でしかない。そこで実際に現代社会学部で学んだ学生当人に、現代社会学部ではどのような教育が行われているのか、わずか1年間ではあるが、それを学ぶと、どのようなことが身につくのか、それを出身高校に伝えてもらうことにした。夏休みから秋にかけて、高校では進路選択のガイダンスが行われる。ただ黙って座っていては、無名大学に新学部の内容を説明してくれなどという注文は入ってこない。そこで1年間実際現代社会学部の教育を受けた学生のなかから、希望者を募り、指導教員の推薦を経て、約20名ほどに、出身高校に戻って、現代社会学部の説明をしてもらうことにした。
出身高校へは、大学側の作成した「学部案内」ばかりでなく、現代社会学部の活動で新聞記事となったものとか、学生自身が作成したホームページ、学部のさまざまな活動を20分ほどのビデオに納めたものを持って行ってもらった。ホームページの作成方法など、やる気のある学生は、最初の一年でマスターしてしまった。またフィリピンでの植林活動をビデオに納めたものを、持参してもらった。その当時は、相当レベルの高い(それだけ高価)パソコンを使っても、デジタル・ビデオの編集には時間がかかった。現地では、写せるだけ写すことにしたので、延べ12時間ほどのビデオの原版ができあがった。それを20分間にまとめるという、かなり過酷な課題を学生に課したが、学生はそれをやってのけた。
ところが、3年目には驚いたことが起こった。今度は教師の側からではなく、学生の間から、学部紹介のビデオを作製したいという声が起こった。ビデオ作成の学生ティームを編成し、現代社会学部のさまざまな活動を取材し、それを高校側に紹介したいというのである。こうして現代社会学部を、学生の目線からとらえ、それを高校生に紹介する試みが始まった。こういうことをやっているうちに、学生のカメラ技術、ビデオ編集技術が高まってきた。なかなか凝った画面表示や画面転換を活用するようになった。最初の年に作成したビデオ・テープは、いかにも素人臭かったが、ついに4年目の夏にはビデオ・テープではなく、CDに焼き付けたものを出身校に持参するまでになった。最初からのことを知っている者からみると、わずか4年間で、よくぞここまで進歩したものだと驚かされた。もちろん、その間にビデオ編集ソフトの向上、デジタル技術の進歩があり、教員側の献身的な手助けがあったことは、否定できない。
このように、我々の情報教育の狙いは、単にパソコンが操れるようになる、あるいはビデオ・カメラを操れるようになることではない。こうしたスキルを身につけることによって、新しい社会的活動が可能になることを知ってもらうことである。先にも述べたように、授業の中では、ビデオ・ジャーナリズムという新しい分野が開拓されつつあることを教え、こうしたビデオ・ジャーナリストの作成した番組を見せた。あるテーマを設定し、取材を重ね、その結果を1本のビデオに纏め上げる。これまでのノンフィクション・ライターならば、それを文章にまとめたのであろうが、ビデオ・ジャーナリストはそれをビデオ番組にまとめる。文章と映像とではどちらがアピール性で勝っているかは、いくら議論しても切がないが、優れた番組になると、文章よりもはるかに高い迫真性を持っていた。
こうした構想の延長として、卒業研究の形態にも工夫を加えた。ふつうは卒業論文というのは、原稿用紙に書くものだが、そのほかに、ホームページ作成も、ビデオ作成も卒業研究として認めることとした。すでに第1回卒業生のなかから、卒業研究としてホームページを完成させた者が出た。もともと従来型の文章で書いた卒論を、ホームページに変換し、図・写真を貼り付け、他のサイトへのリンクを張る作業が加わる。従来型の卒業論文よりも、それだけ余分な作業が必要となる。しかしそれらの学生は最後まで頑張ってホームページを完成させた。
ともかく、我々が意図したのは、現代社会学部の具体的な成果品(=学生)を高校側に見せ、それを通じて、現代社会学部の「理想」を伝えることだった。果たして我々の意図がどの程度通じたのか、それは不明であるが、返ってくる高校側の反応はつねに一貫していた。「ともかく第一回目の卒業生が、どういうところに就職するか、それを見た上で、受験を勧めるかどうかを決める」。
(就職対策)
問題はいよいよ卒業予定者の就職対策をどうするかにかかってきた。新設学部のつらいところは先輩がいないことである。就職活動の経験者がいない。どういうふうに就職活動をするのか、そのノウハウを伝える人がいない。その時登場したのが「キャリア・カウンセラー」の構想である。この構想は、ほかでもない、大江淳良氏からの提案である。長年の親交のよしみから、筆者は最初「ともかく一つでも多くの求人票を集める算段はないものだろうか」と相談を持ちかけた。これに対して大江氏は即座に「今の時代、求人票などいくらでも集められる。問題は武蔵野女子大学現代社会学部の学生が、面接会場に入って、どれだけ面接者の関心をひきつけられるかだ」といって、「キャリア・カウンセラー」の構想を提案してくれた。
この構想を聞いた時、思わず膝を叩いた。まさにそのとおり。専門家は見るところが違うことを痛感した。彼にいわせれば、武蔵野女子大学はきわめて恵まれた立地条件を持っており、大学の周辺にはつい先日まで企業の第一線で、新入社員の採用、研修を担当してきた経営陣経験者が多く住んでいる。そういう人材のノウハウ、経験を活用しない手はないというのである。そこで、新聞の折り込み広告を使って、募集をかけたところ、わずか7名の定員のところに133名の応募があった。競争倍率20倍である。しかも応募者はいずれも一部上場企業のトップ経験者をはじめ、赫赫たる経歴の持ち主ばかりである。夏休みをかけて、書類選考、面接を積み重ね、7名の方々を選び出したが、正直いって応募してくださった全員の力を借りたいと思ったほどである。
このようにして、集まった7名の「キャリア・カウンセラー」は、企業を定年退職して間もない、元気あふれる60歳代前半の男性あり、出産・育児のために、一時家庭に戻った30歳代、40歳代の女性あり、その背景はさまざまだったが、誰もが「ぜひとも今の若い世代に、自分の体験、経験を生のまま伝えたい」という気迫に満ちていた。このほど貴重な人材が大学周辺に眠っていたのかと、改めて驚かされた。
我々の期待は、こうした企業社会での先輩達に、「企業社会が求める人材とはどういうものか」、「企業に中で、評価される人材、評価されない人材とは、どのようなものか」を、これまでの具体的な体験をもとに学生に直接伝授して貰うことであった。ただし、スタートする時に、学生諸君にはっきり断っておいたことは「このカウンセラーの方々は、決してあなた達のために就職先の斡旋をしてくれる人ではない」という点である。だいたい他人に世話をして貰った就職先など、三日ももたない。就職先はあくまでも自分の実力で開拓するもの。その実力に磨きをかける手助けをしてくれるのが「キャリア・カウンセラー」である。
どのカウンセラーも、それまでの職歴を生かして、さまざまな外部講師を教室に招き、ふだんの授業では聞けない体験を話してもらった。あるいは、以前の職場に学生を連れて行き、職場見学をさせてくれた。場合によっては、その職場見学がそのまま入社面接の一部になったこともあった。人を採用することは、その人の労働力だけでなく、その人の持っている人脈をも買うことである。労働力よりも、この人脈・情報の方がはるかに価値が高い。
いよいよ就職戦線開始という時期には、特別企画として、模擬面接を実施してもらった。模擬面接に登場する学生は、全員の顔が引きつっていた。しかし、こうした経験を一度でもすると、企業面接でどう対応したらよいのか、見当がついてくる。いざ本番の就職戦線にでてゆく学生達は、その顔に自信が溢れていた。その結果、第1期生は就職率95%という高率を記録した。恐らくキャリア・カウンセラー制度を取り入れてなければ、これだけの好記録をあげることはできなかったであろう。「第1期生がどのような所に就職するか、それを見た上で、勧めるかどうするか、決めたい」といっていた高校側が、これをどう評価したのか、知りたいが、残念ながら情報がない。
ただこの制度には、いくつか解決すべき課題があった。第一はこれら「キャリア・カウンセラー」の処遇・待遇の問題である。私立大学は多くの非常勤講師を雇用している。しかしその待遇は、私立大学間の暗黙の了解があって、ある額に決まっている。これが非常識に低いことはかねてから問題とされていたが、それを改めようとする機運が生まれない。武蔵野女子大学もまた、すべての非常勤講師の処遇をその水準で決めている。「キャリア・カウンセラー」だけを例外にするには、目に見えない厚い壁があった。第二の課題は、これら「キャリア・カウンセラー」の身分である。大学にはすべての大学に適用される大学設置基準があり、大学教員として位置づけるためには、研究業績、教育経験などに基づく資格審査を経なければならない。しかもその当時、現代社会学部は完成年次に達しておらず、教員構成を変える場合には、大学設置審議会に教員候補者リストを提出して、その審査を経なければならない。その当時から、教員と職員との間をつなぐ新たなポストの必要性が論議の対象にはなっていたが、まだ実現していなかった(未だに実現していない)。結局のところ、キャリア・カウンセラーの方々には、「非常勤職員」の身分で我慢してもらい、待遇もまた非常勤講師並みで我慢してもらうしかなかった。
それよりも厄介だったのが、時間外カウンセリングに対する報酬問題であった。「キャリア開発セミナー」は3年生の後期の科目であった。ところが、学生からの相談が殺到するのは、4年生になり、就職戦線にでかけ、内定をもらう段階である。「A企業と、B企業から内定をもらったが、どちらがよいか」、「あちこち応募したが、どこからも内定がもらえない。どうしたらよいか」。こうした種類の相談は、4年生になってから、つまり正規の「キャリア開発セミナー」が終了してからおこる。この時間外カウンセリングをどう扱うか、それはもう授業外のこととして、一切断るのか、それとも正規のカウンセリング活動として位置づけるか。キャリア・カウンセラーの方々の意見、実情を聞くとともに、経営陣にも実情を報告し、交渉を始めた。しかし、この問題の処理は最後まですっきりしなかった。学内には、時間外勤務ならば、我々もやっているという声があり、最後まで安定した対応ができなかった。
第4の課題は、「キャリア開発セミナー」のカリキュラム内容の整備・調整である。まったく初めての試みで、我々にもはじめから明確なカリキュラム像など作れなかった。ともかく企業経験、職場経験、職業経験を通じて、学生達に必要なことを、自分の経験・体験をもとにして語ってくださいとしか頼みようがなかった。ただこの点で、献身的な努力を払ってくれたのが、大江氏と市川幸子さんであった。お二人は、キャリア・カウンセラーのカウンセラーとして、いろいろな相談にのって頂き、相互の調整を行ってもらった。
(世間にむけて、どうPRするか)
「キャリア・カウンセラー」導入以後の課題は、武蔵野女子大学現代社会学部が新機軸を打ち出したことを、いかに多くの人達に知ってもらうかであった。我々が、全国に先駆けて新らたな試みを始めたことを、どうやって世間に伝えるか。「キャリア・カウンセラー」制度の導入自体に、さまざまな経緯があったが、それ以上に苦労したのが、このメッセージをいかに社会に伝えるかであった。結果的には、朝日新聞が平成13年1月19日の夕刊で取り上げてくれたが、はじめから朝日新聞だけを狙っていたわけではない。まずは大きな網をかけ、その網を少しずつ、手繰ってゆき、最後にようやく朝日新聞が取り上げてくれることとなった。そこに至るまでには、いくつもの苦い体験があった。
かねてから顔見知りの新聞記者達に、「キャリア・カウンセラー」を導入したことを語り、その構想を説明したが、反応はあまりよくなかった。だいたいこういう話は改まった席ではできない。どうしても一杯飲みながらの話になる。一時は連日連夜、胃袋との勝負と思った時期もあった。また、これが国立大学と私立大学との違いなのかとも思った。国立大学にいた頃は、新聞社の方から取材にきた。ところが私立大学に移ってからは、こちらのほうが、新聞社に説明しなければならなくなった。
この過程のなかで、改めて体験したことは、武蔵野女子大学の名がこれほど世間では知られていないのかということだった。新聞はつねに新たな大学の動きを探っている。「キャリア・カウンセラー」のアイディアは、新聞が飛びついていいはずの新機軸である。ところが、名のある大学の始めた新機軸であれば、どの新聞も取り上げてくれる。ところが無名の大学が何か新しいことを始めたといっても、誰も振り向いてくれない。めぐりめぐってようやく朝日新聞が取り上げてくれたが、一頃はほとんど絶望的だった。
この過程で学んだことは、大学の名が知られてなければ話しにならないという単純な事実である。いかに日常的なPRが必要か、そのための人材がいかに必要かであった。「何か新機軸をはじめた。さあ新聞に取り上げて貰おう」。これでは、遅すぎる。メディアとの普段の接触、日常的な情報交換、商売抜きの交流。こうした地道な蓄積なしには、この世界では通用しない。
大学間の競争が熾烈になるにつれて、メディアも一私立大学の宣伝になるような記事など載せられない。メディアには公平性、公共性が求められている。そのなかを一つの大学が社会的認知を高めてゆかなければならないのだから、そう単純ではない。まず始めなければならないことは、具体的にいえば新聞の「多摩版」程度で満足するのではなく、「全国版」を狙うことである。その当時、武蔵野女子大学の受験生は、次第に出身地域が拡大していた。全国各地からきた新入生が故郷に帰って、「ああ、あの大学ね」といわれるようになる努力が必要だった。それは小規模大学になればなるほど、楽ではなかった。
今から振り返ってみると、長い武蔵野女子大学の歴史のなかで、現代社会学部が行ったこれらの試みは、かなり異質なことだったのだろう。「キャリア開発セミナー」の立ち上げ、それに先行して導入した「キャリア・インフォーメイション」などの就職科目の新設は、それまで計画されたことがなかったようである。しかしそれはある意味で当然のことで、「お嬢さん大学」が学生の就職に目くじらを立てることは「品のない」「はしたない」ことだったのであろう。
武蔵野女子大学の原点は、文学部である(草創期には、戦後日本文学をリードした著名な作家、評論家を教授陣に抱えていた)。文学部という組織は、もともと就職とは無縁であり、あえてそれに背を向けることにアイデンティティを発揮する学部である。そこで教えている教員は、自分が学生だった頃、就職活動をしたこともなければ、教員、先輩、同輩から就職のしかたなど、学んだことがなかったことだろう。就職対策に夢中にかる教師、学生、そして学部を、いぶかしい目でみていたことであろう。「就職熱心な文学部」などという言葉は、文字とおりの形容矛盾である。
これはなんら非難すべきことではなく、日本の大学にとっては、きわめて貴重な存在である。こういう学部が日本の大学から姿を消してしまったら、日本もさびしい国になることだろう。こうした文学部から出発した武蔵野女子大学に、就職指導のノウハウが、体験がないのは当然である。新たにできた現代社会学部が、新しい方式を打ち出すしかなかった。
しかしそれは同時に困ったことでもあった。現代社会学部が就職対策に力を入れれば入れるほど、それまで文学部卒業生が就職していた、わずかな就職機会を奪う結果になる。しかしこれは就職ばかりでなく、受験生集めでもそうであった。武蔵野女子大学の場合は、どこかの学部の受験生が増えると、他の学部の受験生が減る。大学全体としてのパイをどうやって拡大させるか、それが経営上の最重要課題なのに、不思議なことに大学側の経営方針は、学部同士で競争しろというだけで、それ以上の具体策がない。小規模大学内部で競争すれば、相互の摩擦が増えるだけである。おそらくそれまで文学部卒業生のお得意先だった企業を、現代社会学部がかなり横取りしたことであろう。
このように「キャリア・カウンセラー」制度の効果は大きかったが、その導入が、スムーズに進んだわけではない。実際は、スムーズどころか、大混乱のなかで始まった。問題はどこにあったか。大学経営陣からすれば、これだけ多額の予算を投じて新規事業に取り組むのは、初めてだったのだろう。その決断が慎重になるのは、当然である。しかし外部の人間の知恵を借り、その提案を受けて、ある事業を実施するには、それなりの対応の仕方があるはずである。決定的場面に居合わせた人間はごく少数で、事実を知っている者は限られている。筆者には、その決定的な会議の雰囲気を表現する、適切な言葉が見つからない。
ともかく、その会議の直後、直ちに大江氏に電話して、こう伝えた。「これまでは私への友情出演で、好意的に提案をしてくれたのであろうが、事態がここまできた以上、筆者への個人的な繋がりなど一切捨ててほしい。このアイディアは大江氏が長年温めてきた、貴重なアイディアある。その真価を理解できない大学に、むざむざその貴重なアイディアを渡す必要はない。」
その時、筆者は心の中で決めた。大江氏がこのプロジェクトを降りてもやむをえない、その結果どのような事態となっても一切関知しない、後は大学経営陣に責任を取ってもらう。それからは、かなりの待ちの時期があった。長い待機期間ののち、再びこのプロジェクトは動き始めた。この間に大江氏の内部でどういう変化があったのかは、大江氏自身に聞くしかない。
いずれにしても2003年秋、武蔵野女子大学のキャリア教育は、文部科学省の「特色ある教育支援プロジェクト」として、採択された。武蔵野女子大学は早速大きな垂れ幕を下げて、受賞を報じたという。しかし、このプロジェクトの発案者、推進者である大江氏、7名のキャリア・カウンセラー、またこの7名のキャリア・カウンセラーのまとめ役として、献身的な努力を払ってくださった市川幸子さんから聞く限りでは、大学経営陣から感謝の言葉、あるいはねぎらいの言葉があったわけではないという。武蔵野女子大学まで足を運び、記事にしてくれた新聞記者とも、筆者はあえて連絡をとっていない。本来ならば、真っ先に知らせ、お礼を言わなければならない人である。
このように、このプロジェクトは、人と人との繋がりのなかから生まれ、その繋がりのなかで、成り立つことができたプロジェクトであった。人々の献身的な努力と、損得を越えた「心意気」によって成り立った企画であった。誰よりも最大のプラスを得たのは、ほかならぬ筆者であり、筆者を支えてくれた人々は、大なり小なり、みな「被害者」であった。この場を借りて感謝の言葉と、遅ればせながらお詫びの言葉を添えたい。