移行体制下における高等教育政策

―――カンボディアのケース―――

潮木守一

1 高等教育政策の不在

カンボディア政府の高等教育局を訪問した時のことである。そこの責任者が開口一番に発した言葉が「われわれには、自国の高等教育政策を作ることができない」という言葉であった。この言葉を耳にした時、一国の高等教育政策の責任者の言葉としては、あまりにも予想を超えていたため、一瞬戸惑った。ところが、いろいろ話を続けているうちに、その言葉の真意が次第に理解できるようになった。確かに現在この国では、政府の手では、高等教育政策を作ることができない。

それはいったいどういう意味なのであろうか。結論をまず述べるならば、カンボディア政府には現在、高等教育に予算を配分するだけの財政的な余裕がない。この国の高等教育機関はかろうじて外国からの援助で維持されている。援助供与国が援助を提供してくれれば、教育活動を行うことができるが、そうでなければ教育活動そのものをストップさせるほかない。援助国がどれだけの資金を提供するかは、もっぱら提供する側の胸下三寸にかかっていて、あらかじめ予想することは困難である。カンボディア政府が自国の高等教育政策を策定することができないのは、このためである。こうした意味での「外部依存性」、これが現在のカンボディアの高等教育を特徴づけている。

一国の高等教育政策が海外からの援助政策如何によって左右される状態とは、確かに異常である。しかもその原因が、ひとえに政府資金の欠乏という、カンボディア側の要因に起因しているのであれば(これは後で述べるように、事実である)、それなりの納得のゆくことである。しかしながら原因はそれだけに止まらないという点に事態の複雑さがある。カンボディア政府が自国の高等教育政策を策定できないのは、単に資金がないためではない。援助提供国間での主導権闘争、外交上のかけひき、将来に対する思惑など、援助提供国側の要因が、一貫した高等教育政策の策定を困難にしている。つまり結論を述べるならば、現在カンボディアを舞台に争われているのは、いかなる国がこの国の将来に対して、影響力を発揮できる拠点を確保できるかをめぐる先進国家間の抗争である。いささかきつい表現を用いるならば、高等教育を対象とする援助は、こうした主導権闘争のための手段となっている。援助供与国は高等教育援助という戦略を用いて、この国に対する影響力行使の拠点を構築しようとしている。

2・カンボディア工科大学の辿った道

やや結論めいたものを先に出しすぎたかもしれない。もう少し事実に則して説明することにしよう。カンボディア高等教育の現状を知るのに、もっとも適切な一つの事例がある。それは「カンボディア工科大学」(Cambodian Institute of Technology)のたどった運命である。この大学がどのように設立され、どのような経緯をたどり、どのような運命の糸に操られてきたのか、そのことを語ることを通じて、単にこの大学の運命ばかりでなく、この国そのものの運命を語ることができる。そこで、この小論では、まずこの「カンボディア工科大学」がたどった運命を語ることから始めることとしよう。

この大学の歴史は、社会主義政権時代にさかのぼる。周知のように、1970年共和国を樹立したロン・ノル政権は、75年のベトナム戦争の終結、それにともなうアメリカ軍のプノム・ペン撤退とともに崩壊し、ここに急進的な社会主義路線をとるポル・ポト政権が成立した。しかし3年後の1978年には親ベトナム路線をとるヘン・サムリンらによる救国民族統一戦線が結成され、ベトナム軍の支援のもとにカンボジア人民共和国を樹立する。それとともにポル・ポト派は中国との国境地帯に立てこもりゲリラ線を開始する。ところがここでも新たな政変が生じ、1982年にはポル・ポト派、くめーる人民民族解放戦線、シアヌーク派の反ベトナム派とが結集して、民主カンボジア連合政府が樹立され、ここに2政権の並立時代を迎えることとなった。

民族独立路線を目指す多くのアジア・アフリカ諸国がそうであったように、これを契機としてカンボディアもまた、かつての宗主国フランスとの関係を断ち切り、代わってソ連との連帯を強化する政策を採用することとなった。それとともにソ連はさまざまな援助をカンボディアに提供した。カンボディア工科大学の創設は、ソ連のこうした対カンボディア援助の一環であった。建物を始め、工科大学に必要な機械類、装置・器具類、実験材料などは、すべてソ連から供与された。教科書もまたソ連の工科大学で使われている教科書(ロシア語で書かれている)が採用された。教授陣の多くはソ連人で、彼等がロシア語を使って、ソ連流の技術教育を与えた。

こうした形態の教育援助はカンボディアだけに限らない。ソ連はこうしたタイプの教育援助をいくつかの国で行っている。発展途上国にとって産業の近代化、高度化は至上命令であり、そのためには科学技術水準の向上が不可欠であり、そのためには高度の科学技術者の養成が必要である。しかし多くの発展途上国は工科大学を創設するだけの資金を欠いており、学術的・技術的基盤も欠いている。こうした発展途上国が外部に対して支援を求めるのは、しごく当然な成り行きであったし、東西二大陣営対立時代には、政治理念・政治体制において近い国にそれを求める以外に方法はなかった。カンボディアがソ連に支援を求め、工科大学を設置しようとしたことは、当然のことであった。

これはまたソ連からすれば、社会主義陣営の盟主としての地位を顕示するために必要なことであった。二大陣営対立時代には、世界は2分され、援助を通じて、世界は色分けされていた。それぞれの陣営の盟主には、盟主としての役割と立場があった。

3.高等教育援助の独自性

すでに周知のこととなっているように、教育分野での援助は、その大部分が高等教育分野に向けられている。その理由は、高等教育分野の援助は、工学部、農学部、医学部、教員養成学部の整備のように、その事業内容が具体的で、しかも成果のヴィジビリティが高い。これに対して、初等教育分野の場合には、全国各地に散在する農村部に小学校校舎を建設しても、広範囲にわたる分散事業となるため、全体を管理することが困難となり、しかもヴィジビリティもそれほど高くない。それ以上に、先進諸国が高等教育援助に関心を抱くのは、それを通じて被援助国に対する長期的影響力を発揮できる拠点を確保できるためである。その長期的影響力とは、どのようなものか。

改めて述べるまでもなく、発展途上国の高等教育は、その国の将来の指導者層の養成機関である。20年後、30年後の政界、財界、実業界、学界、言論界、さまざまな分野の指導者の多くは、その国の中核的な高等教育機関から輩出される。援助提供国が高等教育分野の援助に関心を示すのは、その指導者養成に資金を提供し、その過程に一定の影響力を及ぼすことを通じて、その国の将来に対するなにがしかの影響力を確保したいためである。そのために高等教育を対象とする援助は、援助提供国の長期的な見通し、戦略、思惑などが、入り交じり勝ちである。

高等教育を対象とする援助形態には、大学、学部、学科、研究所などの創設、整備といった形態と、留学生の招致という2形態に分けられるが、多くの場合、この二つはセットとなる。つまり、大学なり学部を創設し、それが軌道に乗るまでは援助提供国の教員が教える。学生のなかから優秀な者を援助提供国へ奨学生として招致し、さらに教育を行う。その彼等がやがては帰国して社会の中枢部分を占めるようになる。こういう過程を通じて、援助国は被援助国の内部に一種の人的拠点を作り上げることになる。これは後で述べるように、かつて植民地宗主国がその植民地支配の手法として用いたものと、基本的には同型である。

ソ連が工科大学創設を通じて達成しようとしたのは、ソ連国内に強い人脈を持ち、ソ連社会とその文化を知り、ソ連の国際的地位を理解し、ソ連との協調路線を維持することのできる人材であった。それは両国の懸け橋となる人物であるとともに、いざという場合にはソ連のいう「無理」を聞いてくれる人物でもある。対等な相互協力関係が容易に支配・従属関係に転化するのが、国際関係の常である。カンボディアの「モスクワへの忠誠」を具体的に担うのは、これらモスクワ留学生であり、そのOBであった。

4.支配言語としての外国語

話をカンボディア工科大学に戻すことにしよう。ソ連の援助によって設立されたこの大学の入学者にまず求められたのは、ロシア語の習得であった。カンボディアはいうまでもなく、かつてはフランスの植民地であった。この植民地時代、この国のエリートはフランス語で教育され、フランス文化を習得することを通じて、エリートとしての地位を築いた。その当時、エリートの多くはフランス留学体験者であった。だから、現在でもエリート層の多くは、フランス語を使用しており、母語であるクメール語の方がかえって不便という人もいる。

たとえば1962年から68年までの期間についてみると、カンボジアから海外の大学へ留学した留学生のうち、42%がフランスに留学している。その当時、ほとんどの国にとって世界最大の留学先はアメリカであったが、カンボディアの場合には、アメリカへの留学(36%)を上回って、フランスが最大の留学先となっていた。

つまり植民地時代には、エリートとしての地位を築くためには、フランス語の能力が不可欠であった。ところが社会主義政権が登場し、ソ連との協力関係が強まるとともに、今度はロシア語が支配言語として浮上するようになった。この「ソ連化」の波をまともに受けたのがカンボディア工科大学の学生達で、彼等は今や小さな時から学んできたフランス語に代わって(彼等の多くはカンボディアの上層階級出身者で、その家庭では日常的にフランス語が話されていたという)、ロシア語を習得しなければならなくなった。

社会主義政権の成立とともに、指導者養成コースも変化することとなった。かつてのフランス留学に代わって、今やソ連留学(あるいはベトナム留学)がエリート・コースとなった。図1は1983年から91年にかけての留学生の留学先を示したものであるが、これからも分かるように、ソ連をはじめ、ベトナム、旧東ドイツ、旧チェコスロバキアなど、ほとんどが旧社会主義圏である。なかでも目立っているのがソ連留学で、全体の6割までがソ連へ留学している。そのソ連留学組が現在では毎年100人のオーダーで帰国してきている。この世代のソ連留学生達こそ、ソ連の崩壊、カンボディアでの市場経済体制への移行という、かつては予想だにしなかった歴史の荒波に翻弄された世代ということになる。

-1:留学生の留学先国(1983年から1991年までの留学生)

資料:ADB(1996)169頁

現地に詳しい人達の話では、こうしたソ連からの帰国組は、二つに分かれるという。一つのグループは、呆然自失、一日中なすことなくボーと過ごしているグループ。彼等からすれば、ソ連で学びとってきた知識・技術、そしてロシア語という武器は、カンボディアの国家発展を支える知的資源であるとともに、彼等個人の輝かしい未来を保証してくれるパスポートになるはずのものであった。それが今や彼等の前から、その知識・技術を役立てるべき国家は消滅し、栄光の座への道も消え去ってしまったのである。

これに対してもう一方のグループは、かつての夢を捨て去り、新時代に即応するため、新たな支配言語となりつつある英語を習得し、それを武器として、市場経済のなかに新たな可能性をつかみ取ろうとしているグループである。このグループからすれば、少年期にはフランス語を習得し(エリート層出身者でなければ、ソ連留学の切符など手に入らなかった)、大学時代・ソ連留学時代にはロシア語を習得し、帰国してからは、今度は英語の習得に努力するという、支配言語の目まぐるしい交代という歴史の荒波に晒されてきた世代である。

呆然自失組にとっても歴史は過酷であったが、転身組にとっても過酷だったことには変わりはない。ただ違っていたのは、一方が変転極まりない歴史の中に方向を見失ったのに対して、他の者はそこに新たな挑戦の場を発見したことだった。東西二大陣営の対立、社会主義体制の自己崩壊、とうとうたる市場経済の浸透。カンボディアという人口わずか1、000万の小国は、次々と歴史のうねりに翻弄されてきた。そこに生きる人々すべてがその奔流に巻き込まれたが、なかでも優れた資質に恵まれ、そのために周囲からも人一倍期待をかけられた若者には、予想を越えた運命が待ち受けていた。

ソ連からの援助によって作られたこの大学は、未来のカンボディアの指導層を養成する場となるはずであった。なかでも、その卒業生のなかからさらに選ばれ、ソ連留学という栄光のティケットを手にしたソ連留学組には、大きな期待がかけられた。帰国の暁には、祖国カンボディアのリーダーとして活躍するとともに、ソ連とカンボディアの懸け橋となり、両国の緊密な関係を一層強化する人材として、活躍することが期待されていた。

5.留学生政策と外交戦略

このように留学生制度とは、当該国間の国交関係を緊密にするための基本的な仕組みであり、長期的な効果を射程に納めた高度の外交戦略といえる。このことがより一層明確な形で顕在化したのは、東西冷戦時代であった。アメリカはアメリカで、その経済力にものをいわせ、世界各地から留学生を招へいし、彼等にアメリカン・デモクラシーを教育し、アメリカの豊かさ、資本主義体制の優位性を、彼等の心に刻印づけようとした。ソ連はソ連で、社会主義にシンパシーを寄せるアジア・アフリカ諸国から留学生を招聘し、計画経済の優位性を若き留学生の心の中に刻み込もうとした。アメリカのソ連もともに「世界の教師」たろうとした(潮木、1999、50頁)。それはかつてイギリス、フランスなど、西欧植民地国家が、宗主国の名において、アジア、アフリカの植民地を対象に行った政策と同様である。ソ連によるカンボジア工科大学の創設は、覇権国家の世界戦略の一環であった。

したがって、1989年から始まるソ連崩壊は、カンボディア工科大学にとって致命的な事件であった。ソ連からの援助で成り立っていた大学は、たちまちにして財政難に陥った。ソ連崩壊とともにソ連人教授団の引き上げ、教育活動は麻痺状態に陥った。他方、カンボディア政府にカンボディア工科大学を支える資金がないことは誰の目にも明らかであった。カンボディア工科大学はいまやソ連に代わる、新たなスポンサーを探し出さねばならなくなった。外国援助で成り立っていた大学は、外国援助に依存しながら生き延びるしかない。

さまざまな紆余曲折の後、ソ連の肩代わりをすることになったのが、かつての宗主国フランスである。1993年以降、フランス(機構的はAUPELF−UREF)はカンボディア工科大学への援助を開始し、かろうじてカンボディア工科大学は閉鎖を免れることとなった。しかしそれとともに、ふたたび教育システムの根本的な変化が生じた。かつてのソ連の教科書を使った、ソ連教授による、ロシア語による工業教育は姿を消し、それに代わって今度はフランスの教科書を使った、フランス人教授による、フランス語による工業教育が登場することとなった。学生はふたたび混乱のなかに陥った。

現在フランスは年間1200万フランを工科大学に援助している。これに対して、カンボディア政府が負担しているのは、約250名ほどの教職員に月額25ドル(プノムペン市内で生活するためには、一所帯当たり100ドルは必要とされている)の給与部分だけである。

この最低必要経費の、わずか4分の1という給与水準を説明するには、現在の財政状態を説明しなければならない。現在カンボディアの国家財政は赤字の連続である。図2は国家歳入と歳出とのバランスを見たものであるが、ここ数年来、毎年900億リエール程度の赤字が続いている。1995年度を例にとれば、その赤字総額は歳入総額の14%に相当している(このほか、カンボジアの社会経済指標は、本論文末尾の「カンボジアの社会指標」を参照のこと)。

-2 :国家財政情況

国家予算の概要(10億リエル)

1992

1993

1994

1995

歳入総額

156.1

290.1

590.4

642.9

    うち税収

109.7

234.1

364.6

466.3

税収のうち関税

79.3

172.4

280.9

347.6

歳出総額

245.6

608.4

1019.2

1221.5

  うち外国援助

1.5

239.1

432.1

536.8

財政収支

(82.5)

(83.1)

(93.5)

(90.0)

こうした状態を克服するため、目下カンボディアでは公務員20%削減計画が実施されており、公務員の給与は低水準のまま据え置かれている。そのため、公務員の間では副業は当然のことされており、彼等を監督する立場にある監督官も、部下の家族の生活を保護するという理由で、それほど厳しく取り締まることができない。教師間でもっとも多い副業は、バイク・タクシーの運転手、個人授業(英語、数学など)であり(ABD、1996、195頁)、大学教師の場合には、自分の講義ノートを作成して、それを学生に販売することが慣行化している。

こうした教員の低報酬は、単に彼等の勤労意欲を下げるばかりでなく、さまざまな不正の横行を招いている。大学への裏口入学には、2、000ドルから5、000ドルという値段がつけられているという(167頁)。またその教授の講義ノートを購入したか否か、あるいはその教授の個人授業を受けたか否かが成績評価、卒業資格の認定に影響するといわれている。こうした情況に対する対応策として、大学への適切な価格の授業料導入が検討されている(この点は後述)。

6.支配言語の交代

もう一度、カンボディア工科大学に話を戻すならば、フランス語による授業の登場は学生達をパニックに陥れた。学生の側から見れば、こういうことになる。ついこの前までは、ロシア語の習得に懸命となっていたのが、ある日突如としてフランス語を習得しなければならなくなった。いうまでもなく、外国語の習得には多くの時間とエネルギーと集中力と根気、努力と能力を必要とする。だから外国語の習得とは個人からみれば、一種の資本投資である。外国語を習得するには、それだけの歳月をかけ、金銭を投下し、平均以上の努力をつぎ込み、知的能力を動員しなければならない。それは個人からみれば一種の投資活動である。投資活動である以上、そこにはなにがしかの収益計算が前提となる。つまりそれだけの時間とエネルギーを投入するだけの価値のある外国語を習得しようとする。もっとも投資効率の高い、市場性の高い外国語を習得しようとするのが、人間の一般的傾向であろう。

フランスの植民地時代のカンボディアにとって、もっとも市場性の高い外国語とは、フランス語であった。それが社会主義体制に変わるとともに、ロシア語に変わった。その社会主義体制が崩壊した現在、それに代わって登場してきたのが、英語である。しかもこうしためまぐるしい変化が、短期日に起きた。人々が生き延びるには、その時々の支配言語を習得することが不可欠である。支配言語の習得は人々にとって生活必需品であった。

フランスからの援助によって教育活動を再開したカンボディア工科大学は、この外国語の市場性という問題に直面することとなった。具体的に述べれば、こういうことである。フランス語による授業が再開されるや否や、カンボジア工科大学の学生達の不満が沸騰した。学生達は、フランス語ではなく、英語での授業を要求した。つまり、学生からすれば、将来のキャリアにとって必要なのは英語であって、フランス語ではない。それは今や市場価値を失ったも同然である。1995年初頭、数週間にわたって工科大学の教育活動は停止した。5月16日に授業は再開されたが、多くの学生は必修のフランス語授業をボイコットした。

この事態をフランス側からみると、別の光景となって現れる。今や工科大学を財政的に支えているのは、ほかならぬフランスである。そのフランスがフランス語の授業を学生に課すのは当然で、それが不満ならば、資金を引き上げるしかない。フランスの資金で行われているフランス語の必修授業が妨害されるのであれば、フランスはいくらでも援助を引き上げる、そういう発言も行われたという。

結局のところ、カンボディア政府とフランス政府との間で話し合いが行われ、その結果、フランス側が譲歩し、1週間に1時間30分の英語の授業を新設すること、そのための費用はフランス政府が負担するという結論に達した。

この学生達の要求の背景を説明するために、ここで若干現在のカンボディアでの言語情況を説明しておく必要があるだろう。一言にしていえば、現在カンボディアで進行しているのは、フランス語から英語への切り替えである。その証拠は、いたる所にみることができる。現在のプノムペン市内で流通しているのは、カンボディア貨幣(リール)ではなく、アメリカ・ドルである。市内の随所には英語学校があり、早朝から多くの受講生が詰めかけている。現在、カンボディアでは英語はもっとも人気のある外国語で、多くの人々がその習得のために、経費の支出をいとわない言語である。筆者はもっぱら英語でのインタビューを行ったが、インタビューの相手となってくれた政府官僚の多くは、フランス語訛りの英語を話してくれた。

また大蔵省で作成される国家予算の政府原案は、まずフランス語で書かれ、それがクメール語に翻訳されて国会に提出され、最後に英語に翻訳されるという。この順番がいつ逆転するのかは、かなり興味のあることであろう。これは大蔵省の首脳部が、かつてのフランス留学組で占められているためである。こうした現象は各所でみられ、各省庁によって内部での作業言語は、どこの国への留学生が中心を占めているかによって、異なっている。ある省ではフランス語が、ある省では英語が、またある省ではロシア語が使われているという。

カンボディア工科大学の建物と並んで、プノムペン大学の外国語センターが建っている。そこでは英語のコースとフランス語のコースが開かれているが、人気が集まるのは、英語のコースである。フランス語コースの受験倍率が4倍であるのに対して、英語のそれは実に30倍に達している(ADB。1996。169頁)。これらの英語のクラスを担当しているのは、オーストラリアからの援助で給与を支払われている教師達(多くはオーストラリア人)である。このように、現在カンボディア工科大学はフランスからの援助で、かろうじて教育活動を継続しているはいるが、フランス側の態度は、かなり微妙である。フランス政府は学生のデモをみて、「この学生ストの背後には、オーストラリアの陰謀がある」とコメントしたといわれている。

7.支配言語をめぐる抗争

はたして、フランス側のコメントがどれほど真実を突いているのかは定かではないが、カンボディアでのオーストラリアの存在が目立つことは否定できない。たとえば、オーストラリアは多くのアドバイザーをカンボディアに送り込んでいる。もともとオーストラリアはアジア・太平洋地域で積極的な教育援助政策を展開しているが、このカンボディアでもオーストラリアの教育援助活動は目立っている。たとえば、現在カンボディアの高等教育政策の将来計画を策定するために、国家高等教育審議会(National Higher Education Task Force)が設置されているが、そこには合計15名の外国人コンサルタントが配置されている。彼等の国別構成を調べてみると、フランス3名、オーストラリア9名、世界銀行3名という構成になっており、オーストラリアは最大数となっている。

こうした例からも分かるように、オーストラリアの存在はかなり顕著である。それは彼等が英語という文化資本をもっているからである。

もともとオーストラリアはアジア・太平洋地域を対象とする留学生の招へい計画には積極的であるが、その上、カンボディアでは英語の市場価値が短期日に高騰した。目下のところ、英語教師を無償で派遣してくれるオーストラリアは、カンボディアにとってなくてはならない存在となり始めている。かつてはフランスが多くのフランス語教師をカンボディアに派遣し、その後ソ連がロシア語教師を多数派遣していたが、今や時代は変わって、オーストラリアが英語教師を派遣する時代が到来している。

こうした時代の変化がかつての宗主国フランスにとって、歓迎すべきものではないことは明らかであろう。フランス語教育を忌避し、英語教育を要求する学生デモの背後に、オーストラリアの陰謀までいわなくとも、その影をみるのは、必ずしも的外れとはいえまい。

要するに現在カンボディアで進行しているのは、支配言語の座を巡るフランス語と英語の言語戦争である。どちらの言語がヘゲモニーを握るかで、両国の影響力・支配力は異なってくる。その背後には、フランス対オーストラリアの対立関係を超えた緊張関係が潜在しているのかもしれない。そればかりでなく、国内的にみればどちらの言語が支配権を握るかで個人の人生コースが変わってくる。場合によっては、これはかつてフランスで教育を受けた年長エリート層と、英語を武器として台頭してきた新興エリート層という世代対立と置き換えてみることもできよう。

こうした時代情況の変化、それに敏感に反応するカンボディア工科大学学生の動きをみて、フランスがカンボディア工科大学に対する援助を打ち切るか、削減するか、微妙な段階にある。オーストラリアがあえてフランスに代わって、カンボディア工科大学運営に乗り出すか否かも今の段階では不明である。カンボディア工科大学のスポンサーが誰になるのか、現段階では一切は不透明である。「われわれカンボディア政府には、自分の国の高等教育政策を決定できない。われわれの高等教育政策は、外国政府に依存している」。こう語る高等教育政策担当者の言葉は、自嘲でも諦めでもなく、現実そのものである。

8.援助対象分野としての教育

教育援助活動は、道路、港湾、橋、発電所、ダムといった経済インフラ領域の援助と異なって、利害のからむことの少ない、それだけ国際協力での「人道主義的側面」を発揮しやすい分野だとされている。確かに校舎建築、教員養成機関の整備、工学部・医学部・農学部の整備、留学生の招へい、これらは一見、援助大国の経済的利益からは中立的で、商業主義的打算を超えていて、それだけ「人道主義」的かもしれない。

しかしすべての援助政策が優れて高度の外交戦略であるのと同様、教育援助もまた外交戦略の一部分であることを免れない。かつてイギリス、フランスが世界各地に植民地を作り、その統治のために、「現地人」のなかから優秀な部分を選りすぐってイギリス、フランスへ留学させ、帰国後は植民地統治機構の「中級官僚」として雇用しようとした。第二次世界大戦後になると、こうした「国際的人材養成戦略」にアメリカ、ソ連が加わることとなった。

アメリカ、ソ連の世界戦略の背後には、それぞれの留学生政策があった。発展途上国のあるものはアメリカに留学生を送り、彼等を通じてアメリカとの緊密な外交関係を維持しようとした。発展途上国のあるものは、ソ連に留学生を送り、彼等を通じてソ連との緊密な外交関係を維持しようとした。さらに発展途上国のあるものは、アメリカ、ソ連の両国に留学生を送ることによって、両国との緊密な外交関係を維持しようとした。

しかし、それはアメリカ、ソ連だけのことではなかった。この点はドイツも同様であった。ドイツは1960年代末にその留学生招へい政策を転換させた。ドイツの留学生招致計画は、DAAD(Deutsches Akademisches Austauschdienst)とアレキサンダー・フォン・フンボルト財団とでおこなわれている。前者は主として20才台の院生クラスの招致計画であり、後者は30歳台の若手研究者を対象とした招致計画である。

アメリカのハーバード大学には「メイソン・プロジェクト」と呼ばれる留学生招致プログラムがある。これはミッド・キャリア・プログラムとも呼ばれているように、アジア・アフリカ諸国から学界、官界、実業界を問わず、将来その分野でリーダーとなる可能性を持った若手後継者を一年間、ハーバードに招致するプログラムである。招致候補者選びに担当者はさまざまな努力を払う。単に希望者から送られてきた書類だけに頼るのではなく、担当者自身が現地にまで赴き、当人を面接をするだけでなく、周囲の関係者から希望者についてさまざまな情報を収集して選考を行っている。

ミッド・キャリア・プロジェクトの言葉のように、すでに特定の職業を持ち、その分野で頭角を著し始め、それだけ高い将来性の見込まれる人材に目ぼしをつけて、招へいするところにこのプロジェクトの意義がある。やがて彼等のなかから、さまざまな分野のリーダーが輩出されることを見込んでいる。その彼等が一国のリーダーとなった時が、このプロジェクトの効果が現れる時である。

ドイツのフンボルト財団に話を戻すならば、50年代、60年代を通じて、もっとも多くこの財団を利用したのは、日本であった。日本人研究者は、フンボルト財団留学生のなかでは、最大のシェアを占めていた。ところが60年代後半は、日本企業の海外進出が進み、進出先でドイツ企業との競争が目立ち始めた時期に当たっている。それまではドイツと日本は、第二次世界大戦中、同盟国として同じ運命を分かち合ったという、いうなれば「戦友意識」が残っていた。しかしこうした「旧同盟国意識」、「戦友意識」も、大戦終結後20年もたてば、薄れるのが当然である。60年代後半に入ると、日本はドイツ市場にとって油断のならない競争相手として目されるようになった。

連邦議会ではフンボルト財団留学生の地域的偏りが議論となった。果たしてドイツはいまだに日本を援助すべきなのか、世界には日本以上に貧しい国がいくらでもある、日本がこれほど豊かになった以上、留学生をドイツに送りたいのであれば、自国の資金で行うべきである、こうした意見がさまざまな場面で主張された。1968年の日本の一人当たりGNPは西欧諸国の水準に接近し、アメリカの社会学者ハーマン・カーンは「次に世界をリードするのは、日本だ」と論じた。

こうした国内世論の動向を考慮して、フンボルト財団は招へい先国の比重を変え始めた。つまりそれまでの日本偏重を是正するため、力点を東欧諸国、アフリカへと移動させた。フンボルト財団奨学生の出身国別構成は、この頃から次第に東欧中心へと移っていった。特に目立ったのがチェコスロヴァキア、ポーランド、ブルガリア、などの東欧諸国の比重増加であった。これら「鉄のカーテン」の向こう側で暮らす若者にとって、このフンボルト財団からの招へいは、西側世界を体験できる、ほとんど唯一の機会であった。彼等のいずれもが若く、才能を持った人々であった。若ければ若いほど、才能があればあるほど、西側世界の体験は鮮明だった。彼等はすでにさまざまな情報によって、西側世界が共産体制と異なっていることを知っていたが、聞くのと見るのとではまったくその効果が違った。

彼等の多くはすでに家族を持ち、それぞれの国で地位を築きはじめていた。たとえ西側社会での生活に心惹かれても、家族を捨て、地位を捨てるほど、若くはなかったし、無分別でもなかった。彼等はこの西側世界での生活が、あくまでもフンボルト財団奨学生という身分が保障された数年間でしかないことを自覚していた。この期限付きの生活が終われば、ふたたびコメコン体制下に組み敷かれた祖国に戻る他ないことを知っていた。だから彼等は期限がくると、大人しく「鉄のカーテン」の向こう側へ帰っていった。一旦帰国してしまったら、二度と手にすることができない、さまざまな電化製品を抱えて。

1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を目指すドプチェク政権を弾圧するため、ソ連軍は戦車部隊をプラハに送り込んだ。市民は素手でソ連戦車の前に立ちはだかった。プラハの目抜き通りでは、学生が焼身自殺でもって、ソ連に対する抗議の意を表明した。今やプラハ市民にとって、その意志を全世界に伝える手段は、電波しかなかった。プラハ市民は電波を通じて、世界に呼びかけた。「ただいま、我々の放送局のドアが激しく叩かれています。ソ連兵がこの放送局を占拠するためにやってきたものと思われます。世界の皆さん。またもや自由の声が押しつぶされようとしています。それでは皆さん、さようなら」。こういう言葉とともに、自由の声が潰されていった。

そのプラハ制圧の時、ソ連はチェコ制裁の理由としていくつかの理由を挙げた。そのなかの一項目として「西ドイツとの過剰な接近」という理由を挙げた。つまり最近のチェコスロバキアは、西ドイツに「接近」しすぎているというのである。これこそほかならぬ、フンボルト財団の留学生政策のことである。その当時、チェコからの留学生は急速に増えていた。ソ連が神経を尖らせたのは、このドイツへの留学の急速な増加であった。ソ連からすれば、コメコン体制下の国はモスクワ留学を目指すのが当然であった。そのなかにあって西ドイツ政府は多くのチェコ留学生を積極的に受け入れた。それがソ連政府の逆鱗に触れた。

その後の歴史については、語るまでもない。1989年、終にチェコは独立を果たした。しかしそれまでの間、幾度となく、体制改革を求めた宣言書の発表、その宣言書に署名した人物に対する弾圧が繰り返えされた。こうした運動に係わったのは、一旦は留学という形で西側を体験した人々だったのではなかろうか。

9.無償制高等教育の見直し

多くの社会主義諸国がそうであったように、カンボディアの高等教育もまた無償制をとってきた。しかし無償制高等教育は社会主義を標榜する国々だけに限らない。西欧福祉国家もまた1970年代以降、無償制、もしくはそれに近い政策を採用してきた。70年代、西欧諸国が高等教育の無償制を採用したのには、それなりのその時点での政治的社会的要請があった。この無償制高等教育は、当然のことながら国家に大きな財政負担を求めた。しかしこの財政負担も、年々国家歳入の増加が見込まれる高度経済成長時代には、それなりに実行可能であった。ところが、高度経済成長が過去のものとなり、国家収入が頭打ち段階に入るとともに、納税者にとっては重荷となり、赤字国家財政の一因となり、国家財政破綻の一因となる。

しかしながら、厄介なことは、一旦高等教育無償制を体験した人々は、もはや高等教育のために自ら経費を投じるという感覚を失うことである。無償制はいまや既得権となり、授業料徴収政策に対してさまざま抵抗するようになる。このことは旧社会主義国ばかりでなく、西欧福祉国家においても共通に見られる。筆者は1996年3月にOECD(経済開発協力機構)の高等教育政策の評価ティームの一員として、ベルギーの高等教育政策の評価に参加し(評価ティームのメンバーは、オーストラリア人を団長に、デンマーク人、アメリカ人、日本人の4名)、さまざまな関係者から意見を聴取する機会をもったが(ベルギー政府の代表、大学協会の代表者、経営者団体の代表、個別大学の管理者、教員、学生代表など)、この高等教育無償制に修正を加える必要性を述べる者はきわめて少なかった。しかしながら、西欧福祉国家が財政的にきわめて厳しい状況にあり、さまざまな角度からの見直しに迫られていることは、改めて述べるまでもない。

カンボディアではすでに述べてきたように、高等教育に予算をまわすだけの国家予算はない。そのため、教員は劣悪な給与に我慢しなければならず、そのことがさまざまな不正・腐敗の原因となっている。それだけでなく、新たな科目(たとえば、学生の間で需要の高い英語、コンピュータ)を設けようにも、教員を雇うだけの資金がない。こうした現状を打破するために、プノンペン大学では授業料の徴収を学生に提案したが、学生の受け入れるところとはならなかった。しかし大学の管理者は、「これは結局のところは、学生自身の利益につながる。現状では英語の教員も足りず、学生はコンピュータも満足に学習できない。もう一度、説得に努めるつもりだ」と語っていた。

10.日本の高等教育援助の可能性

以上述べてきたように、現状ではカンボディア政府は、自国の高等教育政策を組み立てることができない。万事は外国からどれだけの、どのような援助があるかによって決まる。オーストラリアが英語コースのための資金を提供してくれれば英語コースを開設することができるが、援助がなければ英語コースを開設することはできない。フランスが工業教育の援助を提供してくれればカンボディア工科大学は存続できるが、そうでなければ、カンボディア工科大学は存続できない。

日本の高等教育分野での援助の可能性はどの程度あるのか。まず第一に日本に対する期待は大きい。すでに日本はさまざまな援助活動を展開しており、それはきわめて好意的に受け止められている。今のところ、プノムペン大学の外国語センターには、正規のコースとして日本語学科は置かれていない。正規の学科として設けられているのは、英語とフランス語のコースである。現在数名の青年海外協力隊員によって日本語教育が行われている。日本語習得に対する需要は、英語ほどではないにしても、かなりの規模で存在する。日本語習得の目的は、日本語通訳、観光ガイドとなることである。日本が一定の援助を行えば、正規の日本語学科が設けられる可能性は高い。

文部省内にはプノムペン大学に観光学科を設ける意見がある。現在のところカンボディアには輸出産品としては木材・ゴムしかない。外国資本はこの国の政治的不安定性を嫌って、あまり進出していない。またにわかに増加する兆しはみられない。現時点では観光は、少ない資本で外貨を獲得できるもっとも可能性の高い産業と認識されている。

観光ガイドという職業に対する日本人のイメージは、あまり高くない。しかし、国によって観光ガイドの資格水準はかなり差があり、高い国では大学卒の専門職として位置づけられている国もある。その意味でプノムペン大学に観光学科を設けることは、妥当性をもっている。そこに日本語コースを設置するために援助することは十分ありうる。おそらくそこが日本文化、日本事情の紹介の拠点になり、対日貿易、経済交流の拠点へと発展することになるであろう。

付表「カンボジアの社会指標」

1985

1990

最近年

人口指標

総人口(100万人)

7.5

8.6

11.0(1997)

年間人口増加率(%)

3.18

2.72

2.48(1997)

社会指標

総出生率(女性一人当たり出生数)

4.6(1987)

4.5(1992)

5.2(1996)

妊婦死亡率(出生10万件当たり)

-

-

900(1995)

乳幼児死亡率(出生1,000件当たり)

145

123(1992)

115(1995)

平均余命

46

50(1992)

53(1995)

成人識字率

29(1980-1985)

35

69(1996)

女性

17(1980-19859

22

58(1996)

初冬教育租就学率

42(1970-1975)

-

94.5(1996/97)

女子

35(1970-1975)

-

86.4(1996/97)

前期中等教育租就学率

10 (1970-1975)

-

23.2(1996/97)

女子

6 (1970-1975)

-

18.5(1996/97)

後期中等教育租就学率

-

-

6.3(1996/97)

女子

-

-

4.6(1996/97)

栄養不良児(5歳未満児での%)

20(1980-1985)

38

40(1990-1996)

貧困線以下の人口(%)

-

-

30(1994)

安全な水に接近できる人口(%)

-

36(1988-1990)

36(1990-1996)

衛生施設へ接近できる人口(%)

-

14(1988-1990)

14(1990-1996)

教育に対する政府支出(対GDP比)

-

0.70(1991)

1.71997)

健康に対する政府支出(対GDP比)

-

0.30(1991)

1.0(1997)

人間開発指数

0.186

0.348(1994)

人間開発指数(順位)

148

153(1994)

(後記)

小論のもととなった情報の多くは、筆者が1996年8月に行ったカンボディアでの情報収集と、当時名古屋大学大学院国際開発研究科に日本政府の招聘留学生として滞在していた、カンボジア文部省職員Chit Chealy氏への数度にわたるインタービューから得た情報にもとづいている。当時、JICA長期専門家としてカンボディア政府教育省に配属されていた加藤徳夫氏には、教育省を中心に政府機関の責任者とのインタービュー日程の調節、面会予約の取り付けなどで、多大な支援を受けた。また、曹洞宗国際ボランティア協会の専門調査員だった野田真里氏には、同協会が現地で展開している具体的な活動の現場に案内していただき、関係者から直接話を聞く機会を提供して頂いた。とくに当初、協会の支援・指導のもとに開設された印刷工場が、今やカンボディア人自身の手で自立経営されるまで発展したかを、つぶさに見学させてもらったことは、後々まで記憶に残る経験であった。また新たにカンボディア支援のためのNGOを立ち上げる準備活動を行っていた清水芳樹氏には、わざわざプノムペン郊外にある農村まで連れていってもらい、農村開発に積極的な役割を演じている僧侶を紹介していただき、改めてカンボディア社会での仏教の果たす役割を認識させてもらった。また同氏がかつて滞在していたことのある小学校の校長先生の自宅に連れていってもらい、農村での生活の一面を覗かせてもらったことは、貴重な経験となった。またその当時、修士論文完成のためフィールドワークをおこなっていた塚越裕美子氏をはじめ、当時プノムペン滞在中の名古屋大学大学院国際開発研究科の院生諸君にもお礼を述べたい。筆者がプノムペンを離れる最後の日、わざわざ小生のためにセミナーを開催してくれたこと、またそのセミナーに当時プノムペン滞在中だった、多くの海外青年協力隊の隊員の方々が集まってくれたことに感謝したい。本来ならば、この一文はもっと早く発表しなければならなかったのだが、定年退官を目前に控え、また定年退官後は、新たな学部の発足のため、多忙を極める日々が続き、ここまで遅くなってしまったことにお詫びを申したい。

参考文献

Asian Development Bank : Education Sector Strategy Study, Cambodia (1996)

Asian Development Bank : The Royal Government of Cambodia, Education Statistical Digest. Education Sector Review 1994.

Asian Development Bank : Social Sector Profiles : Cambodia, Strategic Forward Look. 1999

Kingdom of Cambodia, Ministry of Education, Youth & Sports : Strategic Plan, Teaching Services Development 1997-2002. 1997

加藤徳夫「発展途上国の教育開発政策形成過程における国際援助のインパクト――カンボディアにおける援助調整メカニズムの構築とその展開」名古屋大学大学院国際開発研究科提出博士論文 1999年

綾部恒雄・石井米雄編「もっと知りたいカンボジア」1996

マハ・ゴサナンダ著 馬籠久美子、野田真里訳「微笑みの祈り」1997

野田真里 「内発的発展と宗教―――カンボジアにおける仏教と開発」 岩波講座「開発と文化」第7巻「人類の未来と開発」所収。1998

潮木守一「世界の大学」岩波講座「現代の教育」第10巻「変貌する高等教育」。1999。