キャンパス・アメニティーー動向と展望

今から数えてかれこれ4半世紀ほど昔の話である。あちこちの大学に大型計算機センターが設けられ、日本の大学にもコンピュータ時代が到来し始めた頃のことである。アメリカから友人が講演にきた。「あしたの講演でこのデータを使いたいので、それまでに集計結果を出してくれ」といって、一束のカードを取り出した。

ご存知のように、その当時、コンピュータへの入力はすべてカードで行っていた。コンピュータに集計をさせるには、一回一回自分でプログラムを作成し、それをカードに打ち込み、これをカード・リーダーという機械を通じてコンピュータに読み込ませる方式になっていた。ただその頃から、毎回毎回、プログラムを自分で書いていては時間ばかりかかるので、アメリカで開発されたSPSS(社会科学のための統計パッケージ)が世界的に普及し始め、これが我々の専門分野では今でいう「事実上の標準」となり始めていた。

つまりその頃から、一応の国際的な水準に達した大学院では、大学院生にこのSPSSを教育するのが標準となり、またそういう大学ではSPSSを搭載したコンピュータが稼働しているのが標準となり始めていた。日本の大学でも少しずつ、こうした「国際標準」に近づきつつあった。こういう話はアメリカにも伝わり、このアメリカ人の友人も、日本の大学でもようやくアメリカなみの環境が整いつつあることを知り、一束のカードを抱えてやってきたのであろう。

おそらく、その背後には彼のアメリカでの経験があったのであろう。別の大学にいっても自分の大学と同じコンピュータが必ずあって、カードさえ抱えてゆけば、講演の直前まで、データ処理を続けることができる。こういう経験である。確かにこのSPSSというパッケージは便利で、何か新しいアイディアが浮かぶと、カードを数枚入れ替えるだけで、いくらでも新しい集計ができた。

それまで集計といえば、カード・ソーターというカードを一枚一枚物理的に分類する機械を使って、途方もないほどの時間をかけていた(それ以前にはさらに手集計の時代という、今の若い世代には想像をつかないほど、原始的で野蛮な時代があった。それに比べればカード・ソーターの出現はまさに画期的な事件で、我々の世代には随喜の涙がでるほどうれしかった。ただ、その頃のことまで話しだすと時間が長くなるので、今回は割愛しておく)。

ともかく、このアメリカの友人も、日本までくる間に新しいアイディアに思いついたらしく、別の集計をしてみたらどういう結果になるのか、講演でそのことに触れたくなり、あしたまでに集計結果をだしてくれとカードの束を小生の前に差し出したのである。ところが時計をみると、時間はすでに午後4時半過ぎ。「この計算ジョブは明日にならないと集計結果がでないのだが」と小生がいったところ、その友人はキョトンとした表情をした。そして「ここのコンピュータ・センターは夜は稼働していないのか?」と不思議そうな顔で訊ねた。そういう質問を受けて、今度はこちらがキョトンとする番になった(ちなみにその頃の筆者はまだアメリカにいったことがなかった)。

その当時(今はもう違う)、日本の大学のコンピュータ・センターは朝9時半から夕方4時半までしか開いていなかった。しかも我々はそれが当たり前だと思い込んでいた。ところがそのアメリカの友人の話を聞くと、アメリカではコンピュータ・センターはどこでも24時間フル稼動しているという。しかも夜間は利用者が減るので、その分だけ料金が安くなり、大学院生などはもっぱら夜中に集計作業をするのだという。

その当時の筆者にとって、24時間連続稼働しているコンピュータ・センターなどというものは、想像を絶していた。その当時の筆者は、同じキャンパス内にコンピュータ・センターができただけですっかり満足し、朝9時半から午後4時半までの稼動体制に、一片の疑問も抱くことはなかった。これで当たり前、これで当然と思い込んでいた。

結局のところ、その日は時間切れで集計をすることができず、翌日コンピュータ・センターまでカード・デックを抱えていったものの、エラー・メッセージが一枚でただけで、とうとう午後からの講演には間に合わなかった(この話も今の若い世代にはまるでおとぎ話みたいな話なのだろう。その当時は、重いカード・デックを抱え、わざわざコンピュータ・センターまで徒歩ででかけ、窓口にそれを預け、計算を依頼し、2時間、3時間と待たされ、そのあげく「コンマが一つ足りない」というエラーメッセージ一枚を受け取るだけ、といった、泣きたくなるようなことがしばしばあった)

アメリカの大学ではコンピュータが一日24時間フルに稼動している。これは筆者にとって衝撃的な話だった。それに引き換え、我々の場合には、あと数分というところで、計算業務が終わってしまい、明日あらためてセンターに足をはこばなければならないことがよくあった。そういう苦い体験をすでに何回か経験していたはずだが、その当時の我々は同じキャンパス内でコンピュータが使えるようになったことだけで、すっかり満足していたのである。

24時間フルに稼動しているアメリカのコンピュータ・センター。職員の勤務時間通り、月曜から金曜の9時から5時までしか動かない日本のコンピュータ・センター。この対照ができあがる原因はどこにあるのか。そこである日、ある席で、このアメリカの計算センターの話を持ち出したところ、「そんな一部の夜型人間のために、人件費、電気代を浪費してまでコンピュータを動かすわけにはいかない」と反論されてしまった。人件費がかかる、電気代がかかる、それだけの予算がないというのであれば、それなりに納得がいくが、その時の雰囲気は「そんな一部の人間の自分勝手で、わがままな言い分まで認めることはできない」という、道義的な人格的な非難が含まれているような感じがした。

それから数年がたち、筆者ははじめてアメリカ生活をすることとなった。アメリカへいって、まず驚いたことは、計算センターばかりでなく、大学図書館もまた夜中の12時まで開館していることだった。しかも深夜12時まで大勢の学生で図書館が溢れかえっている。夜中まで開いている図書館にも驚いたが、それ以上に、これほど多くの大学生が深夜まで勉強しているという事実に、もっと驚いた。

日本の大学生の多くは、夕食後はもうテレビを眺めながら過ごすのが普通であろう。この日米の知的エネルギーの格差はどこからでてくるのか。これだけの格差が何代も蓄積されていった時、いったいいかなる文化格差が生み出されるのか。文化格差だけでなく、あらゆる種類の格差がここから生まれるのではなかろうか。そんな疑問にとりつかれた。その当時「ジャパン・アズ・ナンバーワン」があちこちで話題となっていたが、このアメリカの底力を目の当たりにすると、それがいかにも薄っぺらな議論に思えてしかたがなかった。

それ以来、いったい日本ではいつになったら、これに対抗できる大学図書館体制が構築されるかが、筆者にとっては一つの課題となった。晩年に達し、附属図書館長に選出され、図書館運営に対して多少なりとも影響力を行使できる立場についたが、遂に「アメリカ・モデル」の移植は成功しなかった。なぜそれができなかったのか。

筆者が館長時代、中央館の休日開館を実施し、土曜日、日曜日、休祭日も開館することにしたが、そこまでもってゆくにはいろいろなことがあった(以下の話はあくまでも中央図書館だけの話で、各学部の図書室は手付かず。しかし蔵書冊数を比較すると、学部図書室の方がはるかに多い。日本の大学図書館にとってはこの学部図書室の利用体制をどうするかの方がはるかに重要である。依然として、開館時間は月曜から金曜の、朝9時から午後5時までのところが多い)。まず最大の問題は経費問題であった。これだけの休日開館を実施するには、年間約900万円の追加経費が必要となる。これだけの予算は、年々図書館に配分される経常経費から捻出することは到底できない。どうしても大学全体でプールした予算から特別に支出してもらうしかない。しかもこういうタイプの予算は一年限りのものではなく、一旦始めたら、ほとんど半永久的に支出してゆかねばならない。

しかも大学全体の予算というものは、結局のところは各学部に配分されるべき予算から吸い上げたものだから、その使い道は各学部が目を光らせている。よく「図書館は大学の顔」とはいうが、全学共通経費で実施しなければならない事業は、図書館以外にいくらでもある。多くの他の計画と競合するなかを、ある年度から今後長期的に900万円を固定的に割かねばならないのだから、大学全体の予算編成にとっては大問題となる。大学全体の予算配分などというものは、すでに長年にわたってある種の均衡ができていて、どこかを増やすためには、どこかを削るしかない。こうしたゼロ・サム均衡を覆すことなど、一附属図書館長だけでは到底できることではない。こういう時にものをいうのは、大学首脳部の決断であり、それをおいて他にはない。

しかし、経費問題は問題の一部でしかない。それ以上に厄介なのは、管理上の責任問題である。その当時、国家公務員週休2日制が施行され、職員は土日には大学へ出てくる必要がなくなった。せっかく完全週休2日制が施行され、喜んでいる職員に対して、休日開館のために休日出勤を命ずることは到底できない。休日開館を実施するには、どうしても人材派遣会社からアルバイターを派遣してもらうしかない。しかしそうなると、「アルバイターだけで開館し、何か事故が起きた時、誰が責任をとるのか」という問題が登場してくる。しかるべき責任体制のもとで休日開館を実施するためには、だれか一人は正規の図書館職員が特別出勤をしなければいけないという。

しかし図書館職員からすれば、せっかく完全週休2日制が実現したというのに、誰かが出てこなければならないなどという話はまっぴらごめんということになる。こうなると大学管理機関ばかりでなく、組合もまた同調して休日開館反対論をぶちはじめる。もともと組合は「なんでも反対体質」がある上に、最近ではそれに輪をかけた「保守化傾向」が加わり、新しいことはやりたがらず、なんでもかんでも最低限のサービスだけで済まそうとする。

しかし筆者の記憶では、アメリカの大学図書館では、大量の学生アルバイターが働いていた。カウンターに座って貸し出し業務をしているのも学生アルバイターだったし、一旦書棚から出された本を分類記号にしたがって元の書棚に戻す作業も学生アルバイトだった。ちなみにアメリカでは利用者はいったん本を書棚から取り出したら、自分で元の場所に戻してはいけないことになっている。机の上に置いておくか、「リシェルフ」と書かれた特別の棚に戻しておかなければならない。そして夜の12時に閉館となると、夜中にアルバイターが元の書棚に戻すことになる。配架の乱れを防ぐためである。

このように我々の目に見えたのは、皆学生アルバイターだったが、何か事故があった時、責任をとるために専門の図書館職員が、背後で待機していたのであろうか。しかもアメリカの大学図書館は深夜0時から早朝までの時間帯を使って、使用された書籍をラベル通りに、元の棚に返す作業が行われている。要するにコンピュータ・センターと同様、図書館もまた一日24時間、フルに稼動している。深夜作業に従事するのはみな学生アルバイトだが、そんな時間帯でも専門の図書館職員が何かが起きた時のために、当直勤務をしていたのであろうか。学生アルバイトを使ってでも、24時間フルに図書館を開けようとするアメリカ。責任者不在のまま、不完全な管理体制下で開館することは認められないとして図書館を閉じる日本。この相違はどこからくるのだろうか。

 筆者のみるところ、日本の大学図書館で休日開館が進まないのは、予算不足のためではない。アルバイターを雇う資金など、大学首脳部がその気になればいくらでも捻出できる。むしろ問題はアルバイターだけで開館し、何かがおきた時、誰が責任をとるのかという管理体制上の問題がネックになっているとみている。

これと同様な問題は公立図書館でもおきているようで、住民のニーズ中心に考えるとなると、できる限り開館時間が長い方が便利で、夜間、休日も開いていればそれにこしたことはならない。ところがそれを実行するとなると、月曜から金曜、朝9時から午後5時までの現行公務員の勤務体制と抵触することになる。そこでどこでも部分的なシフト制をとったり、アルバイトを雇ったり、ボランティアに協力を求めたりしているようだが、この方式に対しても疑問が投じられているらしい。問題の在り処は大学図書館の場合と同様で、正規の職員不在のまま開館するといった無責任なことはできないという問題と、図書館職員に課せられた利用者に関する機密保持(誰がどういう本を利用したか、部外者に漏らしてはならないという守秘義務)を、アルバイター、ボランティアでは保障できないとする議論である。

この議論もよく考えると分かりにくい議論で、誰がどんな本を利用したかを秘密にできるのは専門の図書館職員だけで、それ以外に人間にはそれができない、あるいは万が一、機密を漏らした時、その責任を問えないという発想は、どう考えても筆者には分かりにくい。むしろできるだけ多くの一般市民がこういう業務を体験し、個人のプライバシー保護の重要さを具体的に知ってもらった方が、健全な市民生活を作りには効果的なのではなかろうか。この頃では病院にいっても、大勢のボランティアが働いている。誰がどういう病気に罹っているのかという高度のプライバシーを、これらボランティアが守れないとしたら、うかつに病院に行けなくなってしまう。むしろこういうところでボランティアが働くようになったのは、それだけ我々の市民社会が成熟してきた証拠なのではなかろうか。

最近ではインターネットの普及とともに、学習環境、研究環境としてのキャンパス・アメニティーをめぐって、新たな問題が発生している。問題の一つはコンピュータ・ルームの運用体制、つまり何時まで学生に自由に使わせるかという問題である。コンピュータはいくら教師が教室になかで教えても、教えきれない。鍵となるのは学生自身の自学自習であり、仲間との共同学習である。そうすると、夜何時までコンピュータ・ルームを開けておくかが問題となる。これは図書館の休日開館、時間外開館と同様で、開けておくからには管理責任を負える職員を時間外配置するか、それとも無人で開けておくか、責任者を配置するとすると、そのための費用をどこから捻出するか、「そんな気まぐれな一部の夜型人間のために、大切な大学の予算を浪費してよいのかどうか」などなど、議論の種だけは絶えない。

インターネットに関連するもう一つの問題は、大学のサーバを用いて、学生、教職員に、どの程度まで、大学のホームページからの発信を認めるかという問題である。最近ではどこの大学もインターネットを通じて、その大学の情報を発信している。しかしこういう形で発信されているのは、あくまでもその大学の「オフィシャル」な情報、大学管理機関から「公式情報」と認定を受けた情報である。ところが、現在多くの大学では、どの範囲の情報までを「公式情報」と認定するか、その線引きが問題となっている。

最近ではかなり多くの教師が、自分のシラバスなり、教材なりを、大学のホームページを使って発信している。さらには学生のレポート、調査結果などをホームページ上から発信している(その効用、有効性、マイナス面など、いろいろ議論すべきことがあるが、今回は割愛しておく)。筆者自身はこうした発信活動が学生の学習意欲を高め、来るべき情報社会のなかで能動的な市民として行動する上で、大いに推進すべきことと考えているが、現時点では必ずしも多数派ではない。

ここでも問題は管理責任問題と経費問題とにある。学生の学習成果、研究成果を外部に発信することは、彼等の授業への積極的な参加を引き起こす上で、きわめて有効な手段であるが、それをやりだそうとする時、必ず出される疑問は「学生達に大学のホームページを自由に利用させたりして、もし「とんでもない情報」を流したりしたら、誰が責任をとるのか。現に彼等はそんなことをやりかねないではないか」という問題である。

確かに完全に学生達の自由に任せるのは、筆者も反対だが、それでは指導教員の責任のもとでやるとしたらどうかという案になると、これに対しても、反対論は結構多い。確かに大学生と同様、あるいはそれ以上に大学教員が大衆化した時代だから、大学教員といえども信用できない時代で、なかには学生と一緒になって(あるいは学生に先駆けて)「とんでもない情報」を流す教師がでてこないとも限らない。大学管理者からすれば、大学名の書いてあるホームページから入ってゆき、リンク、リンクと辿っていったら、最後に「とんでもない情報」がでてきたら、これは大学の責任の範囲内のことなのか、それとも大学の責任外のことなのか、そもそも大学の「正規のホームページ」とは、どこからどこまでの範囲を指し示すのか、インターネット時代でならではの責任問題がでてくる。

この問題は大学だけの、閉じた世界では決められない部分を持った問題で、例のVチップ導入をめぐる論議が示すように、インターネット文明という新たな文明全体が解決しなければならない面をもっている。ただ気をつけなければならないのは、一部の極端な事例を取り上げて、新たなコミュニケーション手段がもつプラスの可能性を否定してしまうことであろう。この問題については、19978月号の拙稿「情報化時代のなかの大学の課題」(http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/user/prof/p1ushiogim/ide9708.htm)と拙稿「オンライン・ジャーナルの可能性と課題」(活字とはなっていない、オンライン上のみで発表している論文。http://www.gsid.nagoya-u.ac.jp/user/prof/p1ushiogim/experiment.htm)のなかで、いくつかの問題点を指摘しておいたので、今回は割愛したい。

責任問題と並んでもう一つ問題となるのは、経費問題である。大学の経費で購入したサーバなのだから、大学全体のために利用すべきで、一部の教員、一部の教員の指導するゼミだけに使用を認めるのは不公平である、一部の教員に使用を認めるなら、全員の教員にも平等に同じ量のサーバ上のスペースを認めるべきである、などなどいろいろな議論がでる。しかし現状では、ホームページを作成する技能、それを教育活動に活用しようという意欲をもった教員はごく少数しかいない。これら少数の教員に必要なだけのスペースを割り当てれば済むことだが、学内を支配する「平等派」、「横並び派」が強くて、そうもいかない大学が結構あるらしい。

最後に将来の課題として提起しておきたい問題は、インターネットの普及とともに、わざわざ図書館にくる必要性がなくなるし、学生・教師ともに教室に出てくる必要性がなくなるかもしれないという問題である。これまでの我々にとってのアメニティー問題とは、「出てきたくなるほど楽しいキャンパス」を作ることだったが、今起きているのは「出てくる必要のないキャンパス作り」へのパラダイム・シフトである。筆者のような高齢者には、その行方を見定めることはできないが、これはこれで刺激的なテーマである。ぜひ若い世代に考えてもらいたい。

潮木守一(武蔵野女子大学 現代社会学部長 現代社会論)